2013年7月30日火曜日

IEPもどき4

後日談の後日談:

 IEPもどきについては、前回の記事で終わる予定だったのだけれど、今回は、なぜ折角の「IEPもどき」を2年で見切りをつけて、留学を決心したのかを書くことにします。

 IEPもどき(ボランティアのヘルパーさんをつけてもらうこと+学期の終わり毎の反省会)のヘルパーさんは週に2~3日、1回2時間~3時間来てもらっていました。
 IEPもどきが始まった頃は、怪獣もまだ1年生で、学習の内容も難しくなく、週に4~9時間くらいの補助で学校生活にうまく馴染んでいました。

 小学校2年の時は、ヘルパーさんは途中で変わったものの、担任は持ち上がりで環境の変化も少なく、IEPもどきは効果をあげていました。

 小学校3年に進級した時に、担任が変わり、学習内容も難しくなって、IEPもどきの内容の調整や変更が必要になって来ました。

 ヘルパーさんを派遣してもらっているボランティア人材センターに、時間数を増やしてもらえるかどうか相談したのですが、一人のヘルパーさんを長時間拘束するのはヘルパーさんの負担が大きすぎるし、人数を増やそうにもボランティアをしてくれる人の数が足りない状態で、現状維持が精一杯とのことでした。

 その上に、新しく変わった担任から「学校生活に支障が出ているので、特殊学級への移籍を考えてはどうか」と提案がありました。

 担任の要請で、教育委員会の職員が(ヘルパーのついていない時に)怪獣の授業の様子を視察に行ったみたいで、教育委員会から呼び出しがかかりました。
 教育委員会の職員いわく、
「お宅のお子さんの学校での生活の様子を見せていただいたのですが、授業中は折り紙や絵を描いているだけで、授業を全く聞いていない。
担任の指示も理解していないようで、ここまでハンディの重いお子さんが普通学級に在籍するのは無理があるので、特殊学級が適当かと…」

ハァ~?(`△´+) ナンダト!!
今更何言ってるんだ~? 

 怪獣が入学した頃に特殊学級に在籍していた車椅子の生徒は、前の年度に卒業して空きが出ていた。
 入学の時は普通学級を薦めてきて、補助が必要だと相談に行った時は普通学級に在籍していることを理由に断ったくせに、3年になって特殊学級に空きが出たので、今度は特殊学級に移るように圧力をかけてくる。
 自分たちの都合ばっかりで、子供の状態を全く考えてくれていない教育委員会に失望した。

 また、環境が変わって一時的に不安定になっていて、今まで出来たことが出来なくなっている怪獣を理解してサポートしてくれるのではなくて、特殊学級に移籍させてしまおうとした担任の態度にも不信感をおぼえました。

 他にも、保護者会で授業参観に参加した時に、怪獣は部外者扱いで授業に参加するチャンスが与えられていなかったこと。
 PTAの役員の活動で学校に行ったときなどに、授業の様子を覗いた時も、自分から発言の出来ない怪獣は担任から無視されて空気のように扱われる姿を見て胸が痛みました。

 それまで学校や教育委員会と交渉して、怪獣が適切な教育を受けられるように親として手を尽くしてきたけれど、日本の教育制度の中で発達障害を抱えた怪獣に教育を受けさせることに限界を感じました。

 「怪獣を教える方法を知るために、アメリカに行ってIEPを学びたい」
という、思いが強くなってきたのもこの頃で、アメリカに母子留学を決意して準備をすることにしました。

 留学の決意と準備の様子は、留学のきっかけ2留学のきっかけ3留学のきっかけ4ビザ取得に書いてあるので、興味のある方はどうぞ…

 

追記:留学準備について

 この記事の流れだと、一学期の初めに教育委員会との話があって、留学の準備を始めて、夏休みには留学できたと誤解されそうなので、留学準備について少し書いておきたいと思います。

 IEPを学ぶために留学することを決めたのは、怪獣小学2年の1月でした。
留学の情報を集めたり、どのような形で留学するか(単身か母子のみか家族全員か)などを決めたり、英会話の練習のために(駅前でチラシを配っている教会が提供している)無料英会話などに通いはじめました。(留学準備スタート

 3月頃には、留学希望の学校も決めていて資料を取り寄せたりしていました。
 怪獣3年生に上がる前には、集めた情報や取り寄せた資料も揃い、後は応募するだけという状態になっていました。

 3年に進級してすぐ問題が起こり始め、問題の解決方法を模索する傍らで、学年の途中での留学も視野に入れて、アメリカの大学付属の語学学校に願書を提出(郵送)。
 5月末に秋からのプログラムに入学許可の書類が届きました。

 それからは、ビザ取得の記事で書いたように、インターネットでビザ申請について調べまくり、6月末ビザを取得
(その間、は2、3年後にはアメリカ転勤を条件に採用してくれる会社を見つけて転職を決め、私たちが留学を始めたと同時に新しい職場で働き始めました。)

 7月中子供たちの学校の手続きを終えて8月中旬に渡米しました。

 進級後の問題のおかげで留学の時期が予定よりも早まったのは事実だけれど、我が家の場合はそれまでの留学の準備の下地があったので、なんとかアメリカの新学期に間に合わすことが出来ました。

 業者に頼らずに自分で手配する留学は、思い立ったらすぐ留学できるほど簡単ではないです。けれども、(私の場合は)自分で手続きしたり情報を集めたりしたことが、留学後にとても役に立ちました。 

2013年7月29日月曜日

IEPもどき3


 (前記事からの続き)

 校長先生との話し合いには短時間だけれども、怪獣の担任も参加しました。

 怪獣の状況とボランティア人材センターのコーディネーターさんとの話しの内容を話して、人材センターのヘルパーを受け入れを許可してくれるようにお願いしました。

 ヘルパーの必要性は納得してもらえたけれども、公務員や保護者以外の人間を学校に受け入れるのは消極的。
 ボランティアなので料金は発生しないこと、人材センターは市から認可されている団体で、市の福祉課と連携して活動していて、ヘルパーに登録されている方も身元がしっかりしていることなども説明しましたが、
校長はとにかく「前例がないので…」と、言葉を濁すばかり。

「前例(先例)がないので…」

 この言葉をそれまで何度耳にしてきたことか!
お役所関係相談に行くと、断るための常套句なっているんじゃないかと思うくらい、口をそろえて同じセリフを繰り返す。
(前例がないから相談に来てるんじゃん!!
だから、「お役所は融通が利かない」って言われるのよ!!
(*`∧´)プンプン)

 多分、そう言われるだろうと思ってはいたので、覚悟は出来ていたし、人材センターのコーディネーターさんは障害児にヘルパーを手配した経験の持ち主。

私:「人材センターのコーディネーターさんは、別の学校で発達障害児にヘルパーさんを手配した経験があるそうですよ。」
と、話したら、校長先生の表情が変わった。

校長:「そういうことなら、ヘルパーを受け入れる方向で(コーディネーターとヘルパーも含めて)関係者全員で再度話し合いを持ちましょう。」
と、いうことになった。

 2度目の話し合いでは、校長、担任、コーディネーター、ヘルパー、私たち夫婦、が参加して具体的なスケージュールなどを調整しました。

 話し合いの結果、ヘルパーさんに来てもらうのは、週に2~3回、1回2~3時間ということに決まった。
 また、学期の終わり毎に、関係者で集まって反省会をすることも決まりました。

 その時の話し合いの参加メンバーは、誰もIEPについての知識はなかったし、特殊教育の専門家もいなかったけれど、図らずもIEPミーティングと同じことをすることになったのは興味深いです。

かくして始まった「IEPもどき」は、私たちが渡米するまで、(途中でヘルパーさんの交代はあったけれど)約2年間続けられました。

 

 後日談:

 IEPもどきの2回目の反省会の時だったか、校長先生が、
怪獣君に(ボランティアの)ヘルパーさんがついているのは、(学級運営がやりやすいと)すごく評判が良くて、他のクラスにも(軽い)ハンディのある子がいるのですが、来学期からはその子たちにもボランティアさんがつけられるように、コーディネーターさんにお願いしました。」
と、ニコニコ笑いながら報告されてました。

 その報告を聞いて、(最初は消極的だけれど、いい結果が出たら積極的に取り入れるタイプの)この校長と、(発達障害の生徒にヘルパーを手配した実績のある)このコーディネーターだったから、怪獣のIEPもどきも実現したのかもしれない、と感じた。

 ボランティアのヘルパーの受け入れは、怪獣のためにお願いに行ったけれど、IEPもどきや他の子にもヘルパーを手配することになって、(怪獣のように)支援学級と普通学級の制度の隙間に落ち込んでしまった子たちの一助に発展していったことは、予想以上の成果でした。

2013年7月28日日曜日

IEPもどき2


 (前記事からの続き)

 「このまま放っておくと、読み書きも計算も出来ない、生きるために必要な最低限の知識も身につかないまま義務教育が終わってしまうかも…」
と、不安に駆られた私たち親は、問題を解決するための方法を模索することになりました。

 当時の怪獣の学校生活(特に授業)での主な問題点は、
1対1の指示は理解できるが、集団での一斉指示が理解できない。
興味のあるものとそうでないものがはっきりしていて、興味のないことには全く取り組もうとしない(話すら聞かない)。
の2つでした。

 それらの問題を解決して状況を改善するには、
集団での指示をわかりやすく説明してくれる人。
興味のないものに対して声をかけて励ましてくれる人。
が、必要という結論に達したので、教育委員会に相談に行ったのですが、断られてしまった。

 「行政がやってくれないなら、自分でヘルパーを探すしかない」
のだけれど、我が家の経済状態では個人的にヘルパーを雇うお金がない。

 怪獣が就学前に通っていた療育施設と同じ建物に、ボランティア人材センターもあったので、そこに相談に行くことにした。

 人材センターのコーディネーターさんに怪獣の状況を話して、ヘルパーさんを手配できないか相談したところ、ラッキーなことに、そのコーディネーターさんは以前に働いていた職場で、自閉症の子の学校付き添いを手配した経験のある方で、早速登録しているボランティアさんに声をかけてくれることになった。

 親の私たちには、学校にヘルパー受け入れの許可の交渉に行くように指示されました。

 当時の学校の校長先生とは、学校での投薬の件で入学前に相談に行ったことがあって面識はあったので、面談の日程もスムースに決まり、私たち夫婦と校長の3人で話し合いを持つことになりました。
(投薬の件でも市とゴタゴタがあったのだけれど、それを書くと話が脱線してしまうので、そのうち機会があったら書くことにします。)

 長くなりそうなので、校長先生との話し合いの内容は、次回に続く…

2013年7月27日土曜日

IEPもどき


 4月のはじめくらいに、ブロ友さんと、
「日本の学校や教育委員会など(教育に携る公的な機関)は融通が利かない。」
と、いう話になって、
 そのうち、我が家が日本で体験したことを記事に書くと約束していたのだけれど、延び延びになったまま早3ヶ月が過ぎてしまった。

(*_ _)人ゴメンナサイ

 日本にいた頃私たちの住んでいた市では、障害児は就学前に教育委員会の職員と面接があって、面接の結果で養護学校特殊学級(特別支援学校と特別支援級のこと。当時はまだそう呼ばれていた)か普通級に就学するかが割り振られていました。

 うちの怪獣は言葉が喋れた事、(1対1での)指示がとおる事などから、普通学級に在籍するように言われました。

 特殊学級について質問をしたのですが、職員に
「お宅のお子さんが通う予定の学校では、特殊学級に車椅子のお子さんが在籍していて、職員の一人がそちらにかかりきりで人手が足りないので、自分の身の回りのことが出来る子は普通級に在籍して欲しい。」
と、言われました。

 その時は勉強不足だったことも手伝って、
「(経験のある)教育委員会の職員がそう判断するなら、そのほうがいいのだろう」
と、深く考えずに普通級に在籍することになりました。

 ところが、 実際就学してみると、普通学級では色々不都合が出てきたので、教育委員会に補助の人をつけてくれるようにお願いに行ったのですが、普通級に在籍していることを理由に断られてしまいました。
(詳しい経過は過去記事「留学のきっかけ」と、それに続くシリーズに書いてあります。)

 普通学級に在籍するということは、普通学級のカリキュラムに個人が合わせていかなければならない状態で、ハンディや問題を抱えている子がいても、学校や教育委員会は対策を講じる義務がないのだ、という事がわかって愕然としました。 

 

長くなりそうなので、続きは次回に… 

2013年7月25日木曜日

冷やし中華作り in U.S.A.


  夏になって日本のウェブサイトやブログなどで、冷やし中華の画像をよく見るようになった。

「いいなぁ~冷やし中華がたべたい~」
と思ったけれど、冷やし中華なんて日本食のスーパーでしか手に入らないし、
 材料から作ろうにも、アメリカのスーパーでは手に入らない材料がある。

それは、中華麺と胡麻油。

 正確に言うと、中華麺も胡麻油も売っているのだけれど、中華麺は腰がなくてボソボソ、胡麻油は普通のサラダオイルのように薄い色で胡麻の匂いがほとんどしない。

 それでも、どうしても冷やし中華が食べた~い
σ(~~~、) 

 と、いうことで、手持ちの材料+手に入る材料で作ってみることにしました。 

 胡麻油は日本製のものがまだ残っていたので、それを使うとして、問題は麺。
 冷やし中華用の麺はないので、以前日本食の店で買っておいた焼きそば用の乾麺を使いました。

(←具を乗せたところ)

 具には、トマト、薄焼き卵、ハム、イングリッシュ・キューカンバを使いました。
(ちなみに、イングリッシュ・キューカンバはアメリカで売っている普通のキューカンバよりも味が日本のキュウリににているので、和食を作るときに代用としてよく使います。)

 冷やし中華のスープも、お酢の代わりにレモン汁を使って作りました。

 具を乗せてスープをかけたら、見た目も匂いも冷やし中華っぽくなりました。
いさ、試食!!

o(⌒囗⌒)oΨ イッタダキマーーース!!!

 代用品だらけの冷やし中華だったけれど、味はまあまあでホッとした。
海外で挑戦したにしては上出来。
麺の腰がすこし弱かったことと、スープの酸味が弱かったけれど、次回の課題ということで…

 

おまけ

 次回の課題といえば…

 家庭菜園で小さな茄子がなったので、収穫した。
トマトも青いのが生り始めていたのだけれど、株の大きさに比べて生った実が大きすぎて倒れかかっていた株があったのでので、青いままの実2つを収穫することに…

(←収穫した青いままのトマトと茄子)

 青いままでは生食できないので、スライスしてフライパンで焼くことにしました。

 まず、トマトをスライスして塩コショウで味付け。

 細かいパン粉と粉チーズとパセリフレークを混ぜたものをまぶして衣にする。

 衣のついたトマトを、バターを引いたフライパンで、中火で両面をゆっくり焼く。

 今回は、衣に粉チーズとパセリを混ぜて使って、バターを引いたフライパンで焼いたのだけれど、粉チーズにバターの組み合わせがちょっとバタ臭かった。

 次に作る時は、パセリの代わりにドライバジルを使って、バターの代わりにオリーブオイルで焼いてイタリアン風にしようと思いました。
(できたら、青いトマトを食べる機会がないのが一番だけれど…)

2013年7月23日火曜日

Cloud Atras
クラウド アトラス


 Cloud Atrasは2012年の自主制作映画。ジャンルはSFドラマ映画。
 邦題は「クラウド アトラス」で2013年3月に劇場公開されています。

 作品中では、6つの時代(場所)※の複数のストーリーがあって、グランドホテル方式で描かれています。また、同じ俳優がそれぞれの時代のそれぞれ別の役割を演じています。

 例えば、トム・ハンクスの場合は、
1949年:ドクター・ヘンリー・グース、1936年:安ホテルの支配人、1973年:アイザック・サックス、2012年:ダーモット・ホギンズ、2144年:映画の中の主演俳優、2321年:ザックリー(主人公)
で、6つの時代でそれぞれ別の人物を演じています。
 
※6つのストーリーのそれぞれの時代と場所
・1849年、南太平洋
・1936年、イングランド&スコットランド
・1973年、サンフランシスコ
・2012年、イギリス
・2144年、ネオソウル(韓国)
・2321年、ビッグアイランド(地球)

(↑ヒューゴ・アーウィング)

 それぞれの俳優が、6つの時代全部に役割を演じているケースもあれば、写真だけだったり、全く役がなかったりします。

(↑スーザン・サランドン)

 この作品は、複数のストーリが交互に入れ替わるということと、同じ俳優が別のストーリーでそれぞれ別の役を演じていることから、観る側にとってはそれぞれのストーリーを把握しにくい作品だと思います。

 個人的には、里中真知子の漫画「海のオーロラ」に似た印象の作品だと思いました。
(「海のオーロラ」は転生をベースにした複数のストーリーで、ひとつの時代(ストーリー)が終了してから次の時代という形で、主人公もそれを取り巻く人間関係も一緒なので、「クラウド アトラス」よりはシンプルなのだけれど、別の時代の人間がどこかでつながっている感じが似ていると感じました。)

2013年7月21日日曜日

Just Go with It 
ウソツキは結婚のはじまり


 Just Go with Itは2011年のアメリカのロマンティック・コメディ。
 邦題は「ウソツキは結婚のはじまり」で、日本ではDVDスルーになっていて劇場公開されていません。

 1969年のウォルター・マッソーとイングリッド・バーグマン出演のアメリカ映画、Cactus Flower(邦題「サボテンの花」)のリメイク。

 ダニー・マカビー(アダム・サンドラー)は、心臓外科医の卵。
 結婚式の前日に婚約者が、ダニーの家族が不細工ばかりだと散々けなした挙句、ダニーと結婚するのは二股をかけていたもう一方の相手に結婚する気はないと言われたからだと、友達に告白しているのを花嫁の控え室の外で偶然耳にしてしまう。

 ショックを受けたダニーが結婚指輪をつけたままパブでやけ酒を飲んでいる時に、隣に座ったセクシーな女性が鞄を落としたので拾ってあげたら、ナンパと間違われる。
 ところが、結婚指輪を見た女性は急に態度を変え、結婚について聞いてくるので、ダニーは適当に6年間結婚して子供もいるが妻は最低の女だ…などと話をでっち上げる。
 ダニーの話を聞いて同情した女性は、ダニーと共に一夜を過ごす。

 婚約者に傷つけられて恋愛に懲りたダニーはその後、専門を美容外科に変えて、醜い自分の鼻を整形し、結婚指輪をつけて冷たい妻のいる可哀相な夫を演じては、いろんな女性と一夜限りの関係を楽しむ独身生活を続けている。

 キャサリン・マーフィー(ジェニファー・アニストン)は、2人の子持ちのシングルマザー。ダニーの診療所のマネージャーをしていてダニーの良き理解者で良き友人。

 ある日ダニーは、友人のパーティーで小学校の教師をしているパルマ(ブルックリン・デッカー)に出会う。
 パルマはダニーが指輪を外している時に出会って、独身のダニーを気に入ってくれて、ダニーもパルマとは末永く付き合いたいと思っていた。
 ところが、ポケットに入れておいたナンパ用の結婚指輪がパルマに見つかってしまって、既婚者なのに独身だと嘘をつかれたと思い込んだパルマは怒ってしまう。

 キャサリンにパルマのことを相談したら、「本当のことをパルマに言えばいいのに…」とアドバイスされるが、結婚指輪をナンパに使っていたと言い出せなかったダニはー、「結婚しているが、(妻の浮気が原因で)離婚の話し合いを進めてる」と、嘘をついてしまう。

 パルマは、嘘をついていない証拠に、奥さんに合わせてくれるように要求。
 困ったダニーはキャサリンに妻のふりをしてパルマに合って欲しいと頼む。

 初めは乗り気でなかったキャサリンだが、高級ブランドの服や靴やエステなど医者の妻にふさわしい格好をするための費用は出すと言われ、渋々引き受ける。

 果たして、ダニーとキャサリンはうまくパルマを丸め込んで、ダニーの希望通りパルマとの結婚までもちこめるのか…
 作品を見てのお楽しみと言うことで…
 
 

2013年7月19日金曜日

Secretariat
セクレタリアト/奇跡のサラブレッド


 先月と先々月に観たDVDのリビューをまとめて書こうと思っていたのだけれど、インデペンデンスデーの休暇の記事を間に4記事も挟んでしまった…(^-^;

 Secretariatは、2010年のアメリカの伝記映画。
邦題は「セクレタリアト/奇跡のサラブレッド」で、日本では劇場未公開。

 この映画は、ウィリアム・ニックの著作"Secretariat: The Making of a Champion"をもとにつくられていて、1973年に三冠王を達成したセクレタリアトの馬主、ペニー・チェネリーを中心にストーリーが展開していきます。

 ダイアン・レイン演じるぺニー・チェネリー(=ヘレン・ベイテス・チェネリー・トゥイーディー)はコロラド州に住む専業主婦。

 ペニーの両親は、ヴァージニア州でサラブレッドの生産牧場を経営しているが、父のクリス・チェネリー(スコット・グレン)は病気で母が実質的に牧場を切り盛りしていたが、経営はあまりうまくいっていなかった。

 ある日、母の訃報をうけて、ペニーは両親の家へ駆けつける。

 牧場を切り盛りしていた母が亡くなったこと、その牧場の経営も上手くいっていなかったことから、ペニーの兄弟は牧場や馬を売ってしまおうと考える。

 しかし、両親の牧場や馬が相場よりも安い値段で買い叩かれることに納得のいかないペニーは牧場の経営に乗り出す。

 ペニーの母がなくなった時に、妊娠していた2頭の牝馬の子馬のうち、1頭は種馬のオーナーに種付け料として返す約束になっていた。

 コイントスでどちらの母馬から生まれた子馬を選ぶかが決められるのだが、種馬のオーナーはコイントスで勝って、若い牝馬(セクレタリアトの母馬でない方)を選ぶ。

 馬に詳しい関係者は誰もがペニーは貧乏くじを引いたと思ったが、ペニーはセクレタリアトの母馬の持久力のある血筋に興味があったので、残った子馬を取れたことを喜ぶ。

 競馬の馬のオーナーという、女性のほとんどいない分野での挑戦で、ペニーは苦労するが、新しいトレーナーのルシアン・ローリン(ジョン・マルコビッチ)などサラブレッドに詳しい周りの人と協力しながら、セクレタリアトの育成に力を入れていく…

(←存命中のセクレタリアトと当時のペニー・チェネリー本人)

 この作品も、(以前にMoneyballを勧めてくれた)ベラカバンバさんのお勧めで観ました。

 私は競馬や馬のことは全く知らないので、ストーリーについていけるかしらと心配したのですが、知識ゼロでもレースのシーンなどスリルがあって、楽しく観ることができました。
(というか、セクレタリアトについての予備知識が全くなかったから、レースの結果がどうなるかわからなかったので、ドキドキしながら観れて良かったのかも。)

 

2013年7月16日火曜日

迂回路と野中のポスト


 灯台を見に行くためにドライブをしてると、よく見かけたのが幹線道路の工事。

(←上:道端で見かけた「迂回路」のオレンジ色の看板
下:上の写真の看板部分の拡大)

 こちらでは、冬は氷点下20℃~40℃くらいまで気温が下がって、道路が凍結してしまうため、道路工事は夏場に集中して行われます。

 都会と違って、田舎の場合は道路の数が少ないので、幹線道路が迂回になってしまうと、何十キロも遠回りをしなくてはならなくなることもあるし、舗装されていない道路を走らなければならないことも…

(↑回り道で通った舗装されていない道路)

 今回のドライブでは、行くときに使った幹線道路が3箇所も工事中でかなり大回りさせられたので、帰り道は別の幹線道路を使うことにしたのですが、その道路も工事中で迂回させられ、舗装されていない埃っぽい道を通る羽目になり、家に帰ったら車が土埃でうっすらベージュ色になっていました。
(舗装されていない道路は制限速度の標識がなかったので、は時速50マイル=時速約80kmでドライブしていました。
舗装されてない土の道を時速80km?!
(・oノ)ノ!ヒェ~ラリーじゃないんだから…道幅の狭い日本では考えられない。)

 

野中のポスト


(←ピンクの矢印の先:畑の側にポツンとたっているポスト。
ポストの近くに家らしいものは見当たらない。
下:ポスト部分の拡大)

 ドライブをしていて不思議だな?と思ったのは、野原や畑のわきの道端にたつポスト(郵便受け)。

 ポストのたっている道端付近には、住宅に続くわき道が繋がっているわけでもなく、ポストだけがポツンポツンと並んでいることもあって、
「畑の真ん中で手紙を受け取る人もいるのかしら?
新聞を畑で読むためにポストをたててあるのかしら?
じゃあ、野原にあるポストは誰が使っているのかしら?
(牛?馬?ヤギ?)」
と、思ったのですが…

 よく観察すると、ポストのある場所の道を挟んで反対側にポストのない家が建っていた。

(↑家の前の道路にポストのない家)

 野中のポストは、道を挟んで向かい側の家のポストだった。

|)゚0゚(| ホェー!!

 日本は郵便物はバイクで配達するけれど、アメリカの郵便物は車で配達される。
(車から降りなくても配達できるように、普通の車とは逆にハンドルがついている特殊車両を使っている。)

 野中のポストは、郵便を配達するときに、同じ道路を往復しなくてもいいように、郵便を配達する側を決めて、反対側の家は、道路を渡って新聞をとったり郵便物をチェックしたりしなくてはならないらしい。
 受け取る側には不便だけれど、家と家の間隔が何キロもあるような地域では、道路の反対側の家に郵便物を配るために、同じ道路を引き返してくるのは非効率的なので仕方がないのだろうなぁ。

(↑ドライブ中に見た、風力発電の風車。
今回使った道路からは、風力発電の風車を沢山見ることができた。)

2013年7月12日金曜日

Lighthouse(灯台)4
-Pointe Aux Barques-

 午前中はハーバー・ビーチの灯台を見て、午後は次の目的地、Pointe Aux Barques(ポイント・オブ・アークス)灯台に移動しました。

(↑ポイント・オブ・アークス灯台
手前の赤い円筒状の建物はオイルハウス)

 Pointe Aux Barques(ポワント・オ・バークス)灯台はハーバービーチから7マイル北に行ったところにある灯台で、フランス語で名前がついていますが、アメリカ人はPoint of Arks(ポイント・オブ・アークス)と発音しています。

 この灯台は陸にある灯台で、灯台の周りには公園とキャンプ場があります。
灯台の建つ前は船の救助施設で、1848年に灯台が作られました。

 1857年には灯台に繋がった燈台守の住宅が増設され、1934年に灯台がオートメーション化され、最後の灯台守が1939年に引退するまで使われました。
 2002年に、燈台守の住居跡がミュージアム(資料館)として整備されました。
資料館の入場料は無料。灯台に登るには一人2ドルの料金がかかります(2013年現在)。

 灯台の近くにある赤い円筒形の建物はオイルハウスで、灯台がオイルランプだった時代にオイルを貯蔵するための建物で、1892年に完成しました。  

 (↑資料館の内部)

(↑左:灯台の上からの眺め
右:灯台のライトを下から見上げたところ)

2013年7月10日水曜日

Lighthouse(灯台)3
-Habor Beach-

 インデペンデンスデー(独立記念日)の翌日は金曜日でしたが、が有給を取って7月4日~7日まで4連休になりました。

(↑ハーバー・ビーチ灯台)

 「せっかく休みになったのだから、どこかへ行こう」という事になって、前日の農作業の後遺症の筋肉痛をおして灯台を見にいくことになりました。

 今回行ったのは、ヒューロン湖に面した、Habor Beach(ハーバー・ビーチ)灯台とPointe Aux Barqus(ポイント・オブ・アークス)灯台の二箇所。

 最初にハーバー・ビーチ灯台を見に行きました。


(←桟橋の先から見た灯台。
矢印の先)

 ハーバー・ビーチ灯台は、岸から1マイル離れた防波堤の上に建っている灯台で、歩いて灯台まで行くことはできません。
 防波堤は嵐の時の船の避難所にするため作られ、灯台は避難所の場所を示すために、1876年に木製の骨組みだけの灯台で始まり、レンガ造りの今の形になったのは1885年だそうです。
 かつては灯台のそばに、灯台を管理するための木造の小屋があったそうですが、灯台がオートメーション化された時に撤去されたそうです。

(←湖岸から防波堤に向かって伸びる遊歩道桟橋)

 防波堤内の湖岸の一部はビーチになっていて、泳いだり水遊びをする人も沢山いました。
 湖岸から防波堤に向かって300メートルくらいの長さの桟橋があって、桟橋の先には小さなデッキがあって、灯台を眺めることができます。

 眺めることができると言っても上から2つめの画像に写っているくらいの大きさでしか見ることができません。

 夏場は毎週土曜日に、防波堤までボートで行く灯台ツアーがあって、料金は一人20ドル(2013年現在)だそうです。
(私たちが行ったのは金曜だったので、ツアーはありませんでした。)

 ビーチのある場所から800mくらい北に行くと、コーストガードがあって、その奥にマリーナがあり、マリーナにある防波堤から灯台を眺めることができます。

(←マリーナにある防波堤。
残念ながら、灯台のある防波堤には繋がっていない。)

 ギリギリ防波堤の先端までいったのですが、心なしか大きく見えるような気はするけれど、桟橋から見た灯台とあまり大きさが変わらなくて少しがっかり。

 ズーム機能のついたカメラを持って行けば良かった…
(ノ_-。)

(←防波堤の先端から撮影した灯台。
矢印の先。
手前は釣りのボート。)

(↑堤防の先端からのハーバー・ビーチ灯台)

 

 マリーナの防波堤は、悪天候のときには立ち入り禁止ですが、私たちが行った日はお天気がよかったので、防波堤や防波堤の周りにボートを出して、釣りをする人が沢山いました。

(←釣りに来ていた男の子たち。
何が釣れるんだろう?)

(←マリーナにある水上ガソリンスタンド。
「紅の豚」の水上給油所みたい。)

 

 

2013年7月8日月曜日

インデペンデンスデー2013&家庭菜園-定植-


 映画の記事を続けようと思ったのだけれど、インデペンデンスデーに家庭菜園の定植をしたので、忘れないうちに書いておくことにしました。

 去年は、家庭菜園の周りにちゃんとした柵を作ってなかったので、何度も鹿害に遭ってしまったので、は今年は頑丈な柵を作るつもりでいたのだけれど、雨続きでコンクリートの基礎の工事が進まず、定植も延び延びになっていました。

 結局、柵の完成を待っていたら7月半ばくらいになりそうだったので、暫くは仮の柵でしのぐことにして、定植をすることにしました。

(←土を篩にかけているところ) 

 最初にしたのは、土に篩をかけること。
この作業も、雨続きで土がドロドロで篩がなかなかかけられず、定植の当日になって土を篩った。

 土を篩う作業は、2人が土を篩って、1人がスコップで土を入れる3人がかりで、朝の10時から昼間の休憩を挟んで、夜の8時30分までかかりました。

(↑左:土を篩って均したところ。
右:定植する位置を決めるために、苗の鉢を並べたところ。)

 その後、土を均して、定植する位置を決めるために苗の鉢を並べました。
今回、植えた苗は、
・トマト…4本
・ミニトマト…2本
・ローマントマト…4本
・謎のトマト…2本
・ペッパー(ピーマンににた野菜)…4本
・キュウリ…3本
・日本茄子…1本
・大根…4本
・撒かぬ種(去年はメロンだった)…7本

 謎のトマトは苗を買った時には、ミニトマトのラベルがついていたのですが、成長したら明らかに他の2本のミニトマトとは違うし、かといって普通のトマトとも違う形で、トマトだとは思うのだけれど、何ができるのか謎です。

 定植までに時間がかかったので、苗がかなり生長していて、トマトやナスは小さな実がつき始めているものもあったし、苗を植えてあった容器の中は、隙間がほとんどないくらい根がはっていました。

(↑左:トマトのケースをつけた所。
右:仮の柵を取り付けたところ。)

 定植が終わったら、トマトのまわりにケース(支柱)を埋め込んで、菜園の周りに仮の柵を張り巡らしました。

 仮の柵なので、フェンスを取り付けてある支柱が固定されていないし、フェンスも支柱に紐で縛ってあるだけなのですが、ちゃんとした柵ができるまでの間の一時凌ぎには十分だと思います。

 ここまでの作業を終えて、片付けもしたら、夜の10時になっていました。

 約12時間の農作業で、家族全員疲労困憊。
はほとんど別の作業をしていたので、体力に余力がありましたが、篩の作業をしていた怪獣と私はクタクタ。
 年のせいなのか、と私は筋肉痛が数日続きました。
怪獣は筋肉痛にならなかったみたいで、翌日もピンピンしてました。)

 高緯度地域で夏が短いので、毎年「今年こそは早めに定植しよう」と、準備はするのですが、いつも定植は7月の上旬になってしまう。
 今年も、「来年こそは…」と、硬く決心したのだけれど…