2013年8月20日火曜日

プチ旅行3

 観光1日目にベーカリーに行った時、日本人のボランティアのガイドさんがいて、ベーカリー内の説明を日本語でしてもらいました。

 その時に、
「今日は持ち場を離れることが出来ないけれど、明日はガイドできるので予定はどうですか?」
と、申し出てくださったので、お言葉に甘えて2日目は日本語でガイドをお願いすることになりました。

(v^ー゜)ラッキー

(↑個人の住宅と裏庭にあった貯蔵庫
 家を作る時は、地下室も作って貯蔵庫にすることが多いそうです。
 ところが、この家は最初は丸木小屋で地下室がなかったため、先に貯蔵庫をレンガで作って、後で家の方をレンガの家に建て替えたそうで、貯蔵庫が地上にあるのは珍しいそうです。)

 ガイドをしてくださった方によると、日本から観光に来る人もいるそうですが、ガイドや説明は英語なので、建物を見て回るだけで、(上の貯蔵庫が地上にある理由などの)細かい説明や話を理解できていないのはもったいないこと。
 でも、日本語の話せるガイドが少ないので、全ての日本人をガイドしてあげられないのは残念だと話しておられました。

(←上:荷車屋、蹄鉄屋、鍛冶屋の建物
中:荷馬車屋の内部
下:ミニチュアの蹄鉄を作って見せているところ)

 午前中は、いくつかのお店や個人の家を見て回りました。

 午前中最初のお店は、荷車屋と蹄鉄屋と鍛冶屋が一つの建物に入っている施設でした。
 荷車屋では、荷車の車輪の作り方が当時の工具を使って説明されました。
 蹄鉄屋と鍛冶屋では、ミニチュアの蹄鉄作りのデモンストレーションを見ました。
 出来た蹄鉄は幅が3センチくらいで、お土産にもらえました。
「この蹄鉄にぴったり合う馬を連れてきたら、残りの3つも作ってあげる。保障つきだよ~」
と、冗談で言われました。

 2番目に行ったお店は、薬屋と雑貨屋が一緒になっている建物でした。

(←薬屋の棚と窓)

 薬屋の通りに面した窓には、青と赤の色水の入ったフラスコが飾ってあって、床屋さんの店先にある、青と赤と白のグルグルと同じ意味だそうです。

 左の写真では青のボトルが上に飾られていますが、病気が流行っている時は、青と赤のボトルの位置が入れ替わって、赤のボトルが上に飾られるそうです。
 流行が終わると、緑色の色水の入った瓶に変えられるので、薬屋の窓を見ると町の人たちの健康の様子がわかったそうです。

 薬屋には雑貨店も併設されていて、陶器や布、日用品や食品なども売られていて、物々交換でものが売り買いされることもあったそうです。

 観光2日目は、他にも集会場や個人の住宅、靴屋さん、1日目でミュージカルを観たカルチャーホールの2階と・3階等を見学して、午後7時頃に帰路へ着きました。

(←靴屋さんと当時の製法で作られた靴)

 今回の観光では、(2日目に日本人のガイドさんがついてくれたこともあって)開拓者時代の生活や、「ステレオタイプ」の語源や、眠るときの挨拶「Sleep tight」はなぜそう言われるのか…など、面白い話をたくさん聞くことができました。
(全部書きたいのですが長くなるので、そのうち機会があったら、記事にするかもしれません。)

(←カルチャーホール
カルチャーホールは1階が劇場、2階はキルトが展示されていて、3回はダンスホールでした。) 

2013年8月17日土曜日

プチ旅行2


 夫が休みを取れたのは8月12日から17日までの1週間。
 その一週間で、旅行に出かけ、遊園地に遊びに行き、土曜日にはデトロイト郊外で開かれるクラシックカーのクルージングに行きたいと、盛り沢山の予定を立てていたので、今回の旅行で観光できるのはせいぜい2日くらいだろうと踏んでいました。

(←開拓者の使った荷馬車を復元したもの)

 当初の予定は、日曜日に家を出て目的地付近で1泊、翌日と翌々日観光する3泊4日の予定でいましたが、移動だけのために2日使うのがもったいなくて、移動は夜間に、観光は昼間にする1泊2日の強行軍で行くことに決定。
(ホテル代が2日分浮くと言うのも、理由ではあったけれど…)

 1日目は、月曜日の早朝午前2時に家を出発。
 ビジターセンターが朝9時に開くので、その時間に合わせて着きたかったのだけれど、お弁当を作ったりしていて予定よりも1時間出発が遅れてしまいました。

 午前10時頃に目的地に到着。
 教会が非営利で運営している観光施設なので、CMなどで宣伝されている有名な観光地とは違って規模は小さく、目立たなかったので探すのにちょっと苦労しました。

 到着してすぐ、J.Cさんのアドバイスの通りにまずビジターセンターに行ってスケジュールを立てることにしました。

(←荷馬車ツアーの荷馬車と馬)

 ビジターセンターの人によると、観光施設を紹介しながら町を回るワゴン(荷馬車)ツアーがあるので、まず最初はワゴンツアーに参加してから、興味のある施設を回るといいということで、ワゴンツアーのチケット(無料)をもらいました。   

 それから、J.Cさんのお勧めの屋外のショーは7月いっぱいで終わってしまっていたけれど、夕方7時にカルチャーホールでミュージカルがあるので、そのチケット(無料)ももらいました。

 ワゴンツアーの後、ピクニックエリアで持ってきたお弁当を食べて、ベーカリー、ファミリー・リビング・センター、ブリキ屋、鉄砲鍛冶屋、印刷所、郵便局、ブリック・ヤード、学校、住宅などを見て回りました。

 ビジターセンター以外で働いている人たちは、ガイドだけでなく、お掃除や庭の手入れをしている人たちまで開拓者時代風の服を着て作業をしていて、当時にタイムスリップしたみたいな雰囲気でした。

 ファミリー・リビング・センターでは当時の家庭での手工業や仕事の様子などの展示や、体験や、実演などをしていました。

(←ロープ作りを体験しているところ)

 糸紡ぎ、キルト、バッスルオーブンを使ったパン作り、ロウソク作り、機織、ロープ作り、陶芸、樽作りのコーナーがありました。

(←ロウソク作りのやり方を説明してくれるコーナー)

 我が家は、ロープ作りを体験。家族で作ったロープはお土産にもらいました。

 他には、ロウソク作りとパン作り(当時のレシピと方法で作ったパンの味見ができた)、陶芸、樽作りの説明を聞き、機織の実演を見ました。

(←機織の実演と説明をしてくれたおじさん。)

 ここの機織機では、床に敷くラグを作っていて、他の建物の床にもここで作られたラグが敷かれていました。

 また、パン作りの説明をしてくれたコーナーでは、ジンジャーブレッドとパンも作られていて、パンはパン作りの試食用、ジンジャーブレッドはベーカリーでもらえる試食になるそうです。

(↑上段左から:ベーカリー、ブリックヤード、ブリキ屋
下段左から:郵便局、鉄砲鍛冶、印刷所)

 建物などを見学した後は、7時からのミュージカルを観て1日目の観光は終わりました。

2013年8月15日木曜日

プチ旅行


 日本のお盆休みの期間に、夫の休暇が取れたので用事のついでに近場にプチ旅行に行くことにした。

(←サイドミラーに写った朝焼け)

 近場と言っても、今回の旅行は片道8時間を越えるドライブ旅行。
1泊2日の旅程だったので、ほとんどの時間車の中で過ごしたことになる。

(←アメリカの中部の景色。
行けども行けども畑や草原や牧草地の広がっている、まさに「大草原の小さな家」って感じ。)

 今回の目的地は、友人のJ.Cさんのお勧めのイリノイ州とアイオワ州のボーダーのミシシッピ河畔にあった開拓者の町を復元した観光地。

 モルモン教徒の開拓した町で、周囲の住民とのトラブルのために1850年代に放棄されたけれど、1960年代から発掘や復元されて、観光サイトになったもの。

(←ミシシッピ川の岸辺
写真では小さくて見にくいけれど、白い蓮の花が沢山咲いていて綺麗だった。)

 入場やほとんどの施設は無料で、野外劇などのショーもある(ショーも無料)、と言うことだったので、無料大好きな我が家は出かけることにしました。

2013年8月11日日曜日

家庭菜園2013 その3
-収穫-


 今年も定植が7月の頭になってしまった我が家の家庭菜園。
 プラス、雨の日が多くて、夏らしい高温の晴れた日が続かないので、うまく育つか心配だったけれど、7月の下旬にはトマトが赤く色づきはじめ、少しずつだけれど収穫できるようになりました。

(↑7月29日のトマト)

 キュウリは7月中は、3センチくらいの細い実がいくつか見られるだけでしたが、8月に入ったらかなり大きく成長して、収穫も間近と言う感じになってきました。

(←8月4日のキュウリ)

 キュウリは成長すると長さが40cmくらいになる品種なのですが、キュウリのうちの一本が低い位置に実がなっていたため、地面に実が触れるようになってしまったので、少し早いけれど、30cmくらいの長さになった他のキュウリと一緒に、8月9日に収穫しました。

(←8月4日に収穫したトマト)

 収穫したトマトはサラダの上に乗せて、飾りにして食べ、キュウリは輪切りにして醤油とワサビで食べました。
(キュウリは、もろみ味噌があったら良かったのだけれど…)

 トマトもキュウリも新鮮で、ちゃんと野菜の匂いがして美味しかったです。

 (↑左:8月9日の収穫、
右:とれたキュウリを輪切りにしたところ)

2013年8月8日木曜日

家庭菜園2013 その2 
-撒かぬ種&人工授粉-


 我が家の家庭菜園は、冬の間は落ち葉や台所から出た野菜屑などを畑に積んで堆肥作りをしている。

(←上:水色の矢印の先、芽を出してきた謎の野菜
下:土を篩うために容器に移し替えた謎の野菜)

 台所の野菜屑には皮や種なども混ざって捨てるので、暖かくなってくると、種を撒かないのに野菜っぽい芽が出てくることがある。

 去年も7月上旬に定植を終えて暫くすると、菜園に双葉が出てきた。
 抜かずに暫く様子をみたら、メロンだった。
(芽が出た時期が遅かったので、食べられるほど大きくなる前に霜が降りてしまった。)

 今年は6月の下旬には、撒かぬ種の本葉が出始めたのが見つかったので、菜園の土を篩う前に容器に謎の苗を植え替えておいた。

(←7月20日の謎の野菜)

 7月4日に他の野菜の苗と一緒に定植。
2週間くらい経ったら、黄色い花が咲き始めた。

 花の感じからすると、去年の謎の野菜(メロン)とは別の野菜みたい。
 インターネットで画像の検索をしたら、今年の謎の野菜はどうやらカボチャっぽい。

 インターネットで調べたところによると、カボチャには雌花と雄花があって、キュウリのように自家受粉しないので、人工授粉が必要らしい。

(↑雄花)

 人工授粉をするにはまず、雄花と雌花を見分けることから…
と書いてあったので調べると、雌花は花の付け根の所に丸い玉のようなもの(子房)がついていて、雄花にはそれがないらしい。
“〆(゚_゚*)フムフム

 早速我が家の花の種類を調べたら、どれも雄花ばっかりで雌花がない。
|||(-_-;)||||||ガッカリ…

 7月中は毎朝いくつか花が咲くのだけれど、どれも雄花ばっかり。
蕾も付け根に玉のないものばかりで、
「もしかして、うちのは雄ばっかりしか咲かない株とか?」
と、疑心暗鬼に陥っていた。

 8月に入って、ようやく雌花らしき小さい蕾が出てきたので、雌花が咲いたら人工受粉するべく、毎朝毎夕花の様子をチェック。

(↑雌花)

 8月7日の朝、遂に雌花が咲いた。
ヾ(〃^∇^)ノわぁい♪

 雌花が咲いていても雄花がなければ受粉できないので、雄花を捜したら(運良く)一つだけ同じ朝に咲いた雄花が見つかったので、人工受粉させることにした。

( ←上:花びらとガクの一部を切り取ったおしべだけの雄花
下:受粉しているところ)

 初めての受粉だし、時間も朝10時くらいになっちゃってたから、成功したかどうかは微妙なところ。
(夏時間なので、人間の時計は一時間繰り上がっている。カボチャが夏時間を採用していなければいいのだか…)

 今回のが成功しなくても、まだ雌花の蕾も雄花の蕾も沢山あったから、チャンスはまだまだありそう。

 成功したらどんなカボチャが生るのかな?

ワクワク♪o(^o^o)(o^o^)oワクワク♪

いつも食べてる

←コレ(バタカップ・スクワッシュ)だといいなぁ~

 でも、うちの去年の謎の野菜は、期待(カボチャであって欲しかったけれど、メロンだった)を裏切ってるからなぁ~

 もし、ハロウィンに使うオレンジのパンプキン↓だったらどうしよう…

2013年8月6日火曜日

パスポートの更新
正確には期限切れ後、再取得

 パスポートの発給は、日本国内のパスポートセンターだけでなく、国外の大使館や領事館でも申請が出来る。
 2008年に子どもたちのパスポートを更新したのも、アメリカ国内の日本総領事館で切り替えた。

 今年5月に子どもたちのパスポートが、7月に私のパスポートの期限が切れて失効してしまった。

 パスポートの有効期限内に切り替える場合は、古いパスポートと(パスポート用の)写真、その国の滞在資格の証明になるもの(ビザなど)と手数料だけで済んだのだけれど、今回期限が切れてしまっているということで、新規申請と同じで、戸籍抄本(または謄本)が必要だった。
(詳しい情報は外務省のサイト
http://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/passport/pass_5.html
を参考にしてください)

 私と怪獣は領事館に比較的近い地域に住んでいたので、期限内に切り替えることは出来たのだけれど、大学のため他州に住んでいる娘は期限内で切り替えるのは無理。
 どのみち娘のパスポートの切り替えには戸籍抄本(か謄本)が必要だし、何度も領事館に足を運ぶのが面倒だったので、娘が夏休みに帰省してくるのを待って3人で申請に行くことにしました。

 申請には6ヶ月以内の戸籍が必要だったので、本籍地の市役所に問い合わせて郵便で戸籍の写しを請求。
 戸籍の写しが届くのを待って、写真を加工して…と、準備していたら、手続きに行けたのが7月の第3週。

 遠方に住んでいれば、即日発給してもらえるのですが、私たちの住んでいる所はギリギリ即日発給してもらえない地域だったので、申請から1週間以降に領事館に受け取りに来るように言われました。
 ところが、申請の翌週には怪獣が5泊6日のボーイスカウトの活動に出かけてしまったので、申請の翌々週(7月の第5週)にパスポートを受け取りにいきました。

 新しいパスポートはICチップ入りで、料金は大人20歳以上10年用が195ドル、子ども(12歳から20歳未満)5年用が134ドルだった。(2013年7月現在)
(怪獣のパスポートは期限が大人の半分しかないのに割高だと思った。)

 やっと、有効なパスポートが手に入ったので、これで間違って国境を越えてしまっても、無事に帰ってこれる(´▽`) ホッ
 


 

余談:
 私たちがパスポートの申請に行った領事館は、治安の悪さが全米で1,2を争う有名な(この間破産申請した)D市。
 領事館が入っているビルの周辺はオフィス街で、スラム街に比べたら治安ははるかによい方なのだけれど、それでもお世辞にも安全とはいえない地域。
 パーキングメーターがあったとしても、路上に長時間駐車するのは危険なので、領事館の近くの屋内駐車場に停めることにした。

 申請フォームは領事館でしかもらえないため、記入などで手間取って駐車時間が2時間を越えてしまった。
 駐車場を出るときに自動清算機を使おうと思ったら、パーキングチケットが読み取れなくて、係員が出てきて「(駐車時間が)2時間超えているから、1日の駐車料金15ドル払って」と言われました。
 ∑(ёロё)ホエー!!2時間で15ドル~高すぎ~
と、思ったけれど、パスポートの受け取りに行った時は、35分しか停めていないのに6ドル取られた。
 どうやら、15分で2ドルくらいらしい。
さすがアメリカ、安全はただじゃないので、お金で買わなくてはならないらしい。

 しかし、パスポートの料金も高いのに、更に駐車料金まで高額なんて…
(TmT)ウゥゥ・・・

2013年8月3日土曜日

バックパッキング(ボーイスカウトの活動)


 先週7月22日~27日までの6日間、怪獣はボーイスカウトの活動に参加していました。

 去年の活動は、洞窟探検・ロッククライミング・カヌー・急流下りなどの遊びの要素の強い活動でしたが、今年の活動は5泊6日のバックパッキング(食料やキャンプ道具を背負ってひたすら歩く)でした。

(←活動で作った杖。これを持って歩いたらしい。)

 約15~20kgの荷物を背負って、1日約16kmを歩くハードスケジュール。
 5月の半ばごろには、体力をつけるための運動メニューが参加者に配られ、メニューにそって毎日運動するように指示されました。

 我が家も6月の上旬から、怪獣と私と(娘が帰省してきてからは娘も)一緒に、リクレーション・トレイルのウォーキングをしました。

 配られた運動メニューではスクワットや腕立て伏せなどの筋力増強運動を毎日するように薦められていましたが、それらの運動が嫌いな怪獣は出来るだけウォーキングに出かけたがったので、雨の日を除いてほぼ毎日、ウォーキング(怪獣は負荷を背負って)をしました。

 最初は距離も短く、背負う負荷も軽かったのですが、ボーイスカウトの活動の直前には、負荷12.5kgで距離6.4kmを1時間20分で歩けるようになりました。

 そのお陰か、本番の活動のスケジュールも難なくこなすことが出来たようです。
帰ってきた時に、スカウトの大人のリーダーさんが
「怪獣(くん)は、凄かったですよ。
他の子が文句や愚痴を言っていたのに、一言も文句を言わなかった。
一度だけ文句を言ったことがあって、それはみんなに『文句を言うのをやめろ』と言ったときだけだった。」
「『文句を言わずにえらいね』と怪獣(くん)を褒めたら、『お母さんが訓練してくれたから、(長距離歩く)持久力がついたんだ』と話していましたよ~お母さんもご苦労様でした~」
って、怪獣だけじゃなくて私まで褒められてしまいました。
(怪獣の訓練のためのウォーキングに付き合ったおかげで、私の2重あごもすっきりしてきて、一石二鳥だったし…(o ̄∇ ̄o)エヘヘッ♪ )

 折角だから、これからもウォーキング続けようかしら…?

余談

(←バックパッキングに履いていった靴)

 ハイキング用の靴も、4か月前くらいから探していたのだけれど、「ハイカットタイプで防水性のもの」と指定がある上に、日本人の足とアメリカ人の足の形が違うので、なかなか合うサイズのものが見つからない。
(アメリカ人の足は幅が狭くて、足の縦のサイズに合わせると幅がきつくて入らない。
幅に合わせると縦が長すぎで躓いてしまう。)
 やっと、許容範囲の靴が見つかったのは出発の4日前でした。
買った日から3日連続で足慣らしをして、活動に参加しました。
  

2013年8月1日木曜日

怪しい日本語 その9 薄める

 現地校に通っている怪獣は、学校では英語、家族と話すときは主に日本語を使っている。

 夫は家では日本語オンリー、私は英語と日本語と半分くらい怪獣に話しかけるときは英語で話すことが多いです。

 怪獣が返事をする時は、どの言語で話しかけられたかで返事をする言語を決めるのではなくて、話す相手で言語をスイッチしているみたいで、私が英語で話しかけても返事は日本語と言うことが多いです。

 キッチンのカウンターにかなり濃い目に出した麦茶を置いておいたのですが、怪獣がそのままコップに注いで飲もうとするので、
英語で
私:「It's strong.(それ、濃いよ)」
と注意したら、怪獣が日本語で
怪:「わかったよ~弱くすればいいんでしょ~」
と、返事が返ってきた。

 「弱く」って…(^-^;
英語をそのまま直訳しただけ…
ネットの翻訳を使ったみたいに不自然。

 日本語では、麦茶などの液体がstrongな時は「濃い」、weakな時は「薄い」と言うこと。
weakenは「薄める」と言うことを説明したらわかってくれたみたいで、その後は「濃い」「薄い」を使うようになった。

 渡米してもうすぐ9年目に突入。
 これからも怪獣は、この手の英語から直訳した変な日本語を使うことも多くなるんだろうなぁ~

 親も日本語が怪しくなってきているから、正しい日本語を教えるために日本語の勉強をしなおさなければ…

2013年7月30日火曜日

IEPもどき4

後日談の後日談:

 IEPもどきについては、前回の記事で終わる予定だったのだけれど、今回は、なぜ折角の「IEPもどき」を2年で見切りをつけて、留学を決心したのかを書くことにします。

 IEPもどき(ボランティアのヘルパーさんをつけてもらうこと+学期の終わり毎の反省会)のヘルパーさんは週に2~3日、1回2時間~3時間来てもらっていました。
 IEPもどきが始まった頃は、怪獣もまだ1年生で、学習の内容も難しくなく、週に4~9時間くらいの補助で学校生活にうまく馴染んでいました。

 小学校2年の時は、ヘルパーさんは途中で変わったものの、担任は持ち上がりで環境の変化も少なく、IEPもどきは効果をあげていました。

 小学校3年に進級した時に、担任が変わり、学習内容も難しくなって、IEPもどきの内容の調整や変更が必要になって来ました。

 ヘルパーさんを派遣してもらっているボランティア人材センターに、時間数を増やしてもらえるかどうか相談したのですが、一人のヘルパーさんを長時間拘束するのはヘルパーさんの負担が大きすぎるし、人数を増やそうにもボランティアをしてくれる人の数が足りない状態で、現状維持が精一杯とのことでした。

 その上に、新しく変わった担任から「学校生活に支障が出ているので、特殊学級への移籍を考えてはどうか」と提案がありました。

 担任の要請で、教育委員会の職員が(ヘルパーのついていない時に)怪獣の授業の様子を視察に行ったみたいで、教育委員会から呼び出しがかかりました。
 教育委員会の職員いわく、
「お宅のお子さんの学校での生活の様子を見せていただいたのですが、授業中は折り紙や絵を描いているだけで、授業を全く聞いていない。
担任の指示も理解していないようで、ここまでハンディの重いお子さんが普通学級に在籍するのは無理があるので、特殊学級が適当かと…」

ハァ~?(`△´+) ナンダト!!
今更何言ってるんだ~? 

 怪獣が入学した頃に特殊学級に在籍していた車椅子の生徒は、前の年度に卒業して空きが出ていた。
 入学の時は普通学級を薦めてきて、補助が必要だと相談に行った時は普通学級に在籍していることを理由に断ったくせに、3年になって特殊学級に空きが出たので、今度は特殊学級に移るように圧力をかけてくる。
 自分たちの都合ばっかりで、子供の状態を全く考えてくれていない教育委員会に失望した。

 また、環境が変わって一時的に不安定になっていて、今まで出来たことが出来なくなっている怪獣を理解してサポートしてくれるのではなくて、特殊学級に移籍させてしまおうとした担任の態度にも不信感をおぼえました。

 他にも、保護者会で授業参観に参加した時に、怪獣は部外者扱いで授業に参加するチャンスが与えられていなかったこと。
 PTAの役員の活動で学校に行ったときなどに、授業の様子を覗いた時も、自分から発言の出来ない怪獣は担任から無視されて空気のように扱われる姿を見て胸が痛みました。

 それまで学校や教育委員会と交渉して、怪獣が適切な教育を受けられるように親として手を尽くしてきたけれど、日本の教育制度の中で発達障害を抱えた怪獣に教育を受けさせることに限界を感じました。

 「怪獣を教える方法を知るために、アメリカに行ってIEPを学びたい」
という、思いが強くなってきたのもこの頃で、アメリカに母子留学を決意して準備をすることにしました。

 留学の決意と準備の様子は、留学のきっかけ2、留学のきっかけ3、留学のきっかけ4、ビザ取得に書いてあるので、興味のある方はどうぞ…

 

追記:留学準備について

 この記事の流れだと、一学期の初めに教育委員会との話があって、留学の準備を始めて、夏休みには留学できたと誤解されそうなので、留学準備について少し書いておきたいと思います。

 IEPを学ぶために留学することを決めたのは、怪獣が小学2年の1月でした。
留学の情報を集めたり、どのような形で留学するか(単身か母子のみか家族全員か)などを決めたり、英会話の練習のために(駅前でチラシを配っている教会が提供している)無料英会話などに通いはじめました。(留学準備スタート)

 3月頃には、留学希望の学校も決めていて資料を取り寄せたりしていました。
 怪獣が3年生に上がる前には、集めた情報や取り寄せた資料も揃い、後は応募するだけという状態になっていました。

 3年に進級してすぐ問題が起こり始め、問題の解決方法を模索する傍らで、学年の途中での留学も視野に入れて、アメリカの大学付属の語学学校に願書を提出(郵送)。
 5月末に秋からのプログラムに入学許可の書類が届きました。

 それからは、ビザ取得の記事で書いたように、インターネットでビザ申請について調べまくり、6月末にビザを取得。
(その間、夫は2、3年後にはアメリカ転勤を条件に採用してくれる会社を見つけて転職を決め、私たちが留学を始めたと同時に新しい職場で働き始めました。)

 7月中に子供たちの学校の手続きを終えて、8月中旬に渡米しました。

 進級後の問題のおかげで留学の時期が予定よりも早まったのは事実だけれど、我が家の場合はそれまでの留学の準備の下地があったので、なんとかアメリカの新学期に間に合わすことが出来ました。

 業者に頼らずに自分で手配する留学は、思い立ったらすぐ留学できるほど簡単ではないです。けれども、(私の場合は)自分で手続きしたり情報を集めたりしたことが、留学後にとても役に立ちました。 

2013年7月29日月曜日

IEPもどき3


 (前記事からの続き)

 校長先生との話し合いには短時間だけれども、怪獣の担任も参加しました。

 怪獣の状況とボランティア人材センターのコーディネーターさんとの話しの内容を話して、人材センターのヘルパーを受け入れを許可してくれるようにお願いしました。

 ヘルパーの必要性は納得してもらえたけれども、公務員や保護者以外の人間を学校に受け入れるのは消極的。
 ボランティアなので料金は発生しないこと、人材センターは市から認可されている団体で、市の福祉課と連携して活動していて、ヘルパーに登録されている方も身元がしっかりしていることなども説明しましたが、
校長はとにかく「前例がないので…」と、言葉を濁すばかり。

「前例(先例)がないので…」

 この言葉をそれまで何度耳にしてきたことか!
お役所関係相談に行くと、断るための常套句なっているんじゃないかと思うくらい、口をそろえて同じセリフを繰り返す。
(前例がないから相談に来てるんじゃん!!
だから、「お役所は融通が利かない」って言われるのよ!!
(*`∧´)プンプン)

 多分、そう言われるだろうと思ってはいたので、覚悟は出来ていたし、人材センターのコーディネーターさんは障害児にヘルパーを手配した経験の持ち主。

私:「人材センターのコーディネーターさんは、別の学校で発達障害児にヘルパーさんを手配した経験があるそうですよ。」
と、話したら、校長先生の表情が変わった。

校長:「そういうことなら、ヘルパーを受け入れる方向で(コーディネーターとヘルパーも含めて)関係者全員で再度話し合いを持ちましょう。」
と、いうことになった。

 2度目の話し合いでは、校長、担任、コーディネーター、ヘルパー、私たち夫婦、が参加して具体的なスケージュールなどを調整しました。

 話し合いの結果、ヘルパーさんに来てもらうのは、週に2~3回、1回2~3時間ということに決まった。
 また、学期の終わり毎に、関係者で集まって反省会をすることも決まりました。

 その時の話し合いの参加メンバーは、誰もIEPについての知識はなかったし、特殊教育の専門家もいなかったけれど、図らずもIEPミーティングと同じことをすることになったのは興味深いです。

かくして始まった「IEPもどき」は、私たちが渡米するまで、(途中でヘルパーさんの交代はあったけれど)約2年間続けられました。

 

 後日談:

 IEPもどきの2回目の反省会の時だったか、校長先生が、
「怪獣君に(ボランティアの)ヘルパーさんがついているのは、(学級運営がやりやすいと)すごく評判が良くて、他のクラスにも(軽い)ハンディのある子がいるのですが、来学期からはその子たちにもボランティアさんがつけられるように、コーディネーターさんにお願いしました。」
と、ニコニコ笑いながら報告されてました。

 その報告を聞いて、(最初は消極的だけれど、いい結果が出たら積極的に取り入れるタイプの)この校長と、(発達障害の生徒にヘルパーを手配した実績のある)このコーディネーターだったから、怪獣のIEPもどきも実現したのかもしれない、と感じた。

 ボランティアのヘルパーの受け入れは、怪獣のためにお願いに行ったけれど、IEPもどきや他の子にもヘルパーを手配することになって、(怪獣のように)支援学級と普通学級の制度の隙間に落ち込んでしまった子たちの一助に発展していったことは、予想以上の成果でした。

2013年7月28日日曜日

IEPもどき2


 (前記事からの続き)

 「このまま放っておくと、読み書きも計算も出来ない、生きるために必要な最低限の知識も身につかないまま義務教育が終わってしまうかも…」
と、不安に駆られた私たち親は、問題を解決するための方法を模索することになりました。

 当時の怪獣の学校生活(特に授業)での主な問題点は、
①1対1の指示は理解できるが、集団での一斉指示が理解できない。
②興味のあるものとそうでないものがはっきりしていて、興味のないことには全く取り組もうとしない(話すら聞かない)。
の2つでした。

 それらの問題を解決して状況を改善するには、
①集団での指示をわかりやすく説明してくれる人。
②興味のないものに対して声をかけて励ましてくれる人。
が、必要という結論に達したので、教育委員会に相談に行ったのですが、断られてしまった。

 「行政がやってくれないなら、自分でヘルパーを探すしかない」
のだけれど、我が家の経済状態では個人的にヘルパーを雇うお金がない。

 怪獣が就学前に通っていた療育施設と同じ建物に、ボランティア人材センターもあったので、そこに相談に行くことにした。

 人材センターのコーディネーターさんに怪獣の状況を話して、ヘルパーさんを手配できないか相談したところ、ラッキーなことに、そのコーディネーターさんは以前に働いていた職場で、自閉症の子の学校付き添いを手配した経験のある方で、早速登録しているボランティアさんに声をかけてくれることになった。

 親の私たちには、学校にヘルパー受け入れの許可の交渉に行くように指示されました。

 当時の学校の校長先生とは、学校での投薬の件で入学前に相談に行ったことがあって面識はあったので、面談の日程もスムースに決まり、私たち夫婦と校長の3人で話し合いを持つことになりました。
(投薬の件でも市とゴタゴタがあったのだけれど、それを書くと話が脱線してしまうので、そのうち機会があったら書くことにします。)

 長くなりそうなので、校長先生との話し合いの内容は、次回に続く…

2013年7月27日土曜日

IEPもどき


 4月のはじめくらいに、ブロ友さんと、
「日本の学校や教育委員会など(教育に携る公的な機関)は融通が利かない。」
と、いう話になって、
 そのうち、我が家が日本で体験したことを記事に書くと約束していたのだけれど、延び延びになったまま早3ヶ月が過ぎてしまった。

(*_ _)人ゴメンナサイ

 日本にいた頃私たちの住んでいた市では、障害児は就学前に教育委員会の職員と面接があって、面接の結果で養護学校か特殊学級(特別支援学校と特別支援級のこと。当時はまだそう呼ばれていた)か普通級に就学するかが割り振られていました。

 うちの怪獣は言葉が喋れた事、(1対1での)指示がとおる事などから、普通学級に在籍するように言われました。

 特殊学級について質問をしたのですが、職員に
「お宅のお子さんが通う予定の学校では、特殊学級に車椅子のお子さんが在籍していて、職員の一人がそちらにかかりきりで人手が足りないので、自分の身の回りのことが出来る子は普通級に在籍して欲しい。」
と、言われました。

 その時は勉強不足だったことも手伝って、
「(経験のある)教育委員会の職員がそう判断するなら、そのほうがいいのだろう」
と、深く考えずに普通級に在籍することになりました。

 ところが、 実際就学してみると、普通学級では色々不都合が出てきたので、教育委員会に補助の人をつけてくれるようにお願いに行ったのですが、普通級に在籍していることを理由に断られてしまいました。
(詳しい経過は過去記事「留学のきっかけ」と、それに続くシリーズ2、3に書いてあります。)

 普通学級に在籍するということは、普通学級のカリキュラムに個人が合わせていかなければならない状態で、ハンディや問題を抱えている子がいても、学校や教育委員会は対策を講じる義務がないのだ、という事がわかって愕然としました。 

 

長くなりそうなので、続きは次回に…