2013年11月30日土曜日

面接~2ウィークス・ノーティス
-アメリカで転職6-


 転職関係の記事は11月中で終わらせようと思って、毎日連続で更新していたのだけれど、今週はサンクスギブン&ブラックフライデーもあって、思ったように記事の執筆が進まなかった。

 時間は遅くなっても、今日中にUPするぞ~
p( `o´ )qガンバルゾ~
 と言うわけで、昨日の記事からの続き

 は仕事や職探しやセミナーでバタバタしているうちに、あっという間に11月が終わってしまった。

 11月が終わった時点で、案の定、企業内への転職先は見つからなかった。
と、いうのも、
 企業内の求職や転職は人事課を通して申し込む決まりになっていたのだけれど、人事の担当者がサンクスギブンの前後2週間も休暇を取ってしまい、2週間のレジメは放ったらかしで申し込み先に送られていなかったからである。
 人事の担当が休暇から帰ってきたら、企業内の転職活動の期限は1週間後に迫っていていて、それまでに転職するのは不可能。
 失業しかかっている人がいても、しっかり休暇は取る、さすがアメリカンらしい働き方。
せめて休暇に入る前にレジメを申し込み先に送ってくれていれば、仕事が見つかったかもしれないのに…
 企業外への転職に力を入れていて正解だった

 会社の求職担当がいい加減だったのとは対照的に、 モンスター・ドット・コムを見て連絡して来たアメリカの人材会社の担当は親切だった。

 人材会社の担当(人買いさん)はインド人で、日本で働いていたこともある人だった。
 カバーレターやレジメのチェックだけでなく、面接に行く企業の情報やニーズなどを細かく調べて教えてくれたし、給料の交渉の仕方や、面接が終わったら面接官にサンキューメールを書くなどの、アメリカの面接での慣習なども教えてくれた。
 面接の前日の夜には、電話で面接の練習までしてアドバイスをしてくれた。

 面接当日は、(欠勤理由をパワハラ上司に知られるのが嫌だったので)会社を無断欠勤して出かけた
朝から面接で午後には帰宅。
 一般的な面接だと思って行ったら、インド人の人買いさんが事前にかなり根回しをしてくれていたみたいで、先方は雇う気満々。
 面接に来ていたのは3人、全部現場の人間で、自己紹介もそこそこに、いきなり実際の業務の話になって、
「こういう時は、どういう対応をしますか?」
等の、具体的な質問が多かったらしい。

 当初は現場の人間と面接した後に、幹部クラスのボスとの面接が予定されていたけれど、インド人の人買いさんがボスを説得してくれて、ボスとの面接なしで採用が決まり、面接の2~3日後には採用確定の連絡が来て、給料の額などの雇用の条件の調整に入りました。

 面接の翌日、出社すると件のパワハラ上司が、欠勤の理由を根堀り葉堀り聞いてくるので、妻の調子が悪かったと返事をした。
 「妻の調子が悪い」は、転職活動のため会社を休まなくてはならない時のための言い訳で、件のパワハラ上司には「レイオフの話以来、妻が落ち込んでいて夜も眠れないようだ」と話していたし、同僚たちにはレイオフのことは知らせていなかったので、「妻が最近欝っぽい」と話してあった。
 実際のところは、妻(私)はピンピンしていて、企業外への転職活動モードになっていた
(現在私が使っている携帯は、私の名義で契約して、転職活動専用機にして、に持たせていたもの。)

 インド人の人買いさんが給与の交渉のためのメールを添削までしてくれたおかげで、12月の中旬にはその当時よりもいいお給料で新しい会社との交渉が決まり、当時働いていた会社をその年いっぱい(12月31日)に辞めるために2ウィークス・ノーティス(辞表)を出すことになった。

 2ウィークス・ノーティスもインド人の人買いさんが文章を考えてくれて、は宛先をタイプして、文章をコピペして、自分の名前を署名して、会社と人事と件のパワハラ上司に提出するだけだった。

 が2ウィークス・ノーティスを提出した提出した時、件のパワハラ上司はレイオフではなくて自己都合退職されたことがショックで「どうせ仕事なんかないんだから出いけ!」と、ぶち切れ、事情を知らなかった同僚たちはの急な退職にびっくりした。

 レイオフを打診されてから1ヶ月と10日、は私物を少しずつ会社から家に持ち帰っていたし、会社から支給されたPCのメールなど仕事と関係のないデータは移動個人情報はすべて消去済み、携帯も連絡先など必要なものは移動して、残りは全部消去してあった。
 オフィスの机の上に、会社から支給されたPCと携帯だけを置いて帰ってきた。

 本当は今日で転職シリーズは書き終える予定だったけれど、文章をまとめる力がなくて長くなりすぎてしまった。
 退職後の様子は次回に続く…
 

2013年11月29日金曜日

求職ワークショップ
-アメリカで転職5-


 昨日の記事からの続き…

 レイオフ通告以来、通常通り会社に出勤して業務をこなし、会社の規則で企業内の転職活動をし、(会社には内緒で)外部への転職活動を進めるという、多忙な日々を送っていた

 件のパワハラ上司は、の追い出しが確実になったと安心したのか、あからさまなパワハラの手を少し緩めてきた。
 に外部機関へ通報されたり弁護士を立てて訴えられるのを恐れたのか、転職活動に協力するポーズをとり始めた。
 協力はポーズだけで、実際は何もしないばかりか、下請けの企業の新卒レベル(給料半減)の求人の話を持ってきて、コンタクトを取るようにしつこく勧めて、企業内での転職活動をする時間を減らすなど、親切を装った妨害をしてくるようになった。

 レイオフの原因がわかった時点で、その企業に未練なんて微塵もなくなっていたは、パワハラ上司の勧めに従うふりをしながら、ひたすら企業外の転職活動に力を入れていた。 

 ネットでの転職活動の他に、G.Tさんに紹介してもらった、求職ワークショップやカウンセリングをやっているS.Sさんに連絡をとって、直近のセミナーの予約もとった。

 ネットでの求職活動はレジメを送ったりなど、面接に至るまでのいわゆる書類選考の活動しか出来ないが、S.Sさんの働いている機関の求職ワークショップでは、主に人対人での就職活動のノウハウに重点を置いたセミナーを開催していた。

 がS.Sさんに連絡をとった時は、丁度11月のセミナーが終わったばかりで、次のセミナーは12月の頭にしかなかった。
 S.Sさんに事情を話して、セミナーの前に面接になる可能性が非常に高いので、面接に備えてやっておいた方がいいことがあるかどうかを聞いたら、連絡した翌日に自宅まで来てくれることになった。

 S.Sさんの話によると、企業の面接で一番最初に訊ねられる質問は、
「あなたについて話してください」
とか
「自分をどう思いますか?」
といった、類のものが最も多いそうで、
 その質問に、2分くらいで短く自分を売り込むことができたら、面接官の印象がぐっと上がるということだった。
 S.Sさんは、面接に備えて2分間の自分を売り込むCMを作るようににアドバイスして、もしも、セミナーの前に面接の予定が入ったら、(S.Sさんに)連絡するようにと言ってくれた。

 結局、アメリカの人材会社(人買いさん)の紹介してくれた企業の面接は、セミナーの翌日だったので、面接にギリギリ間に合った。

 求職セミナーは、5~6人の小グループで、一人一人が面接の模擬をやって、それを見ていた他の人が、感想を述べたり改善点をアドバイスしたり、近くの会社に突撃訪問して面接の予約を取ってくる活動をしたり、電話での話し方のアドバイスや、面接の時の服装、統計資料を使った求職の進め方(傾向と対策?)など、役立つ活動が沢山あったらしい。

 が求職セミナーに参加して驚いたのは、以外のセミナーに来た人全員が、勤続年数が3年以下だったこと。
 が「7年勤続している」と言ったら、アメリカ人は「長いね~」と、驚いていたみたい。
統計でも、アメリカ人は平均2~3年で転職を繰り返していると言うデータがあるそうです。

 さて、求職セミナーの翌日は、ドキドキのアメリカで初めての面接。
面接の結果は…次回に続く…
 

2013年11月28日木曜日

ネットで転職活動
-アメリカで転職4-


 昨日の記事からの続き

(←モンスター・ドット・コムのウェブページ)

 「こうなったら、出来るだけ早く転職先を決めて、クソ上司にリベンジだ~」

(`∇´*)o"エイ(`∇´*)o"エイ(`0´*)ノ"オゥ!!

と、社外への転職に力を入れることを決めた私たちだったが、新しい職探しは地道な作業だった。

 アメリカにも、日本の職安にあたるようなサービスはあるのだけれど、失業者優先で、お役所関係が管轄しているので、対応がのんびりしている。
 終身雇用制のないアメリカでは、転職が頻繁に行われていて、求人や求職の情報もめまぐるしくかわるので、スローテンポの職安での職探しではまともな仕事を見つけるのは至難の業。

 「今の時代はネットでしょ!」
と言うことで、(J.CさんやG.Tさんの勧めに従って、)転職の情報を収集するために、ネットの求職サイトやビジネス系のSNSに登録することにした。

 まず、手始めに職探しでは有名所のモンスター・ドット・コムへ登録。
その後、日英バイリンガルの職探しのサイトなど、2~3件のサイトに登録。
 登録の仕方は簡単で、サイトの指示に従って情報を入力していけば登録完了。
 登録完了後は、自分の必要に合わせて公開する情報を選んだり、ある一定の企業からアクセスできないように設定したり、レジメを添付したりすればOKです。

 モンスター・ドット・コムには求職だけでなく、求人のページもあって、求職者が興味のある企業に問い合わせることが出来るのですが、私の仕事は求人のページを調べて、の職歴と合いそうな職種を募集している会社を探すことだった。

 また、J.CさんやG.Tさんの話によると、約80%の人がビジネスSNSを通して仕事を見つけていると言うことで、2人が勧めてくれたLinkedInというビジネスSNSに登録することになった。

 LinkedInは、フェイスブックのビジネス版のような感じで、友達を承認していくことで、友達の友達のそのまた友達と、人のつながりで情報を共有・遣り取りするシステム。

  が登録した時は、登録をしたメールアドレスの住所録に入っているコンタクト先に、LinledInのお誘いのメールが自動的に届くような設定になっていたので、友達にしたくない人(の場合はパワハラ上司や当時働いていた企業の人間)に連絡が行かないように、都合の悪い人が履歴に入っているメールアドレスは登録しなかった。

 求職サイトに登録して間もない頃は、求人リストの中から興味のある企業にコンタクトを取るのが主でしたが、登録後2~3日したら、人材会社や企業の人事担当からのコンタクトが入ってくるようになった。

 モンスター経由でコンタクトを取ってきたのは、ほぼ100%人材会社(私たち夫婦は「人買いさん」と呼んでいた)で、
人買いさんたちは電話で直接コンタクトしてきて、求人している企業の名前は伏せて、まず(給与や勤務地などの)こちらの希望の条件を聞いて、企業の求人とこちらの希望が合えば、企業へ紹介してもらえるシステムのようだった。

 は日英バイリンガルということで、日系の人材会社が何社かコンタクトを取ってきたのだが、日系の人買いさんが取引をしている日系企業は、基本給がその時に働いていた会社より大幅に低いところが多くて、どれもの希望には一致しない。

 日系の人買いさんからの問い合わせが多い中、ある日、アメリカの人材会社から「ぜひ、紹介したい会社がある」と、電話がかかってきた。
 話を聞くと、がエンジニア時代にやっていた仕事に関連のある分野で、おまけに辞めようとしていた会社の基本給と同額かそれ以上の額を保証できると言うことだったので、話を進めてもらうことにした。

 LinkedInを通しても、1件だけ企業の人事担当から連絡があったけれど、業界は一致していたけれど部門が一致しなかったので、面接には至らなかった。
 LinkedIn経由の求人コンタクトは少なかったけれど、LinkedInにレジメを載せておいたら、友達や知り合いが添削をしてくれたり、知り合いが所属する色んな企業の情報がやり取りできて、かなり有益だった。

 次回に続く…
 

 

2013年11月27日水曜日

レイオフに至った状況
-アメリカで転職3-


 昨日の記事からの続き。

 J.CさんやGTさんのアドバイスを受けたり、レジメを書いているうちに、3ヶ月のスキルトレーニングプログラムの実態や、レイオフに至った状況がだんだん見えてきた。

 最初は、直属の上司のパワハラが酷かったので、直属の上司が単独犯行かと思ったのだけれど、直属の上司の上司に相談しようと、連絡を取るけれど「会議中だ」と逃げられてつかまらない。
 周りの状況や同僚からの情報を集めていくうちに、幾つかの原因が複雑に関係していることがわかってきた。

直属の上司は、元同僚だったのだけれど昇進しての上司になった。
彼は(アメリカ人だから)英語は達者で幹部にとりいるのはうまいけれど、技術に関してはうちのの方が詳しかったため、に自分の地位を奪われるのを恐れていて、常にライバル意識むき出しだった。

日本のチームに新しく入ったマネージャーが、口ばっかりで仕事をしな(出来ない?)くて、関連するアメリカの仕事にまで支障がでていたので、が日本チームのマネージャーに日本チームの役割をきちんと果たすように注意をしたのが原因で、ことあるごとに対立していた。

直属の上司と日本のチームのマネージャーで、邪魔なを追い出す作戦を実行していた時に、

ヨーロッパの本社で移動があって、中国に転勤するように言われたヨーロッパ人のマネージャーが、「中国は嫌だ」とアメリカに移動させてくれるようにゴネたので、アメリカに移動することになったが、彼が来ることになったため、アメリカの会社ではマネージャーが余剰になってしまい、誰かを辞めさせなければならないことに…

当時アメリカのオフィスには、日本人はしかいなくて在米の日系企業との橋渡しをしていた。
ところが、日本のチームで働いていた日本語の喋れる一般職のアジア人が、震災以来、放射能を恐れて、しつこくアメリカに転勤願いを出していたので、彼をアメリカに転勤させればマネージャーは減らせるし、日本語の喋れる人を確保できるしという状況が出来てしまった。

 これらの4つのカードが揃ったところで、日米のマネージャーとヨーロッパの本社の幹部で、レイオフを決めて実行したというわけである。

 技術畑出身の元エンジニアだったは、出世欲もないし、人間関係の文(あや)を読み取るのが苦手で、周りでこれだけ自分を辞めさせようと圧力がかかっているのに、全然気がついていなかった。
 実際に職場を見たわけでない、の話の断片や家で持ち帰って仕事をしているのを見ているだけの私でも、はっきりとわかるほどのパワハラだったのに、本人は解雇を言い渡される1月くらい前にパワハラが激化するまで、嫌がらせに全く気が付いていなかった。

 "o(-_-;*) ウゥム…
驚くほどの鈍感力というか、世渡り下手と言うか…

 おまけに、は駆け引きのできないストレートな性格なので、にうまく行っていないプロジェクトの責任を転嫁して、レイオフに持ち込むのは、赤子の手をひねるより簡単だったのではないかと思う。

 ヨーロッパの本社の幹部や、日本のマネージャーまで絡んだレイオフだと、どう頑張っても1ヶ月以内に企業内で転職先を探すのは絶望的。
 運良く見つかったところで、会社の体質は変わらないのだから、第2、第3のレイオフの可能性もあるし、何よりのんびり屋でお人よしのが生き残れる会社ではないと感じたので、社外に転職先を探すことにした。

 そんなこんなで当時働いていた会社に見切りをつけたと私は、表面的には会社の規則の1ヶ月の企業内転職と3ヶ月のスキル向上プログラムをこなして時間稼ぎをしている間に、外の企業への転職活動に本腰を入れることになった。

 の直属の上司は、夫をレイオフにしたら、それまでが処理していた仕事をヨーロッパから来るマネージャーとアジア人の一般職にさせる目論見でいたようだが、直属の上司のプランには問題点があった。
 の代わりに日本企業対応要員で呼ばれるアジア人の一般職の人の日本語は、(日本語の喋れない外国人から見たら流暢に見えるのだろうが)何とか通じている状態で細かい仕事の打ち合わせが出来るレベルではない、おまけに彼の英語力は日本語よりレベルが低い。
 そのうえ、ヨーロッパから来るマネージャーはアメリカの業務内容に詳しくないので、慣れるまでに時間がかかる。
 が3ヶ月プログラムをこなすことなく辞めてしまうと、業務に何らかの支障が出てくるのは必至。 

「こうなったら、出来るだけ早く転職先を決めて、クソ上司にリベンジだ~」
(`∇´*)o"エイ(`∇´*)o"エイ(`0´*)ノ"オゥ!!

 次回に続く…
 
 

2013年11月26日火曜日

レジメの書き方と職探しのアドバイス
-アメリカで転職2-


 昨日の記事からの続き…

 転職活動の手始めとしてまずはレジメからと言うことで、7年前に使ったレジメに新しい情報を加えたり、手直ししてJ.Cさんにわたしました。

 J.Cさんは一応目を通したのですが、J.Cさんが働いている業種・業界との働いている業種・業界が違うので、文法的なチェックは出来るけれど、の希望する業界の企業への売り込むポイントがわからないと言うことで、J.Cさんの友人でと同じ業種・業界で、人事担当をしているG.Tさんを紹介してもらいました。

 G.Tさんとは、J.Cさんとと私の4人で会って、幾つか職探しのアドバイスをしてくれました。

 まず、G.Tさんは、のレジメを一目見て、日英バイリンガルと現在の業界ではなくて最初の業界で働いていた履歴をセールスポイントにして、レジメを書き直すように勧めてきました。

 レジメは一般用のものと、申し込む企業のニーズに合わせて、強調するポイント(スキルや職歴など)を変えたものを幾つかと2種類準備すること。
 レジメに添付する、カバーレター(挨拶状)を書くように言われました。

 G.Tさん曰く、
「多くの人はレジメで就職が決まると思っているが、レジメは面接に漕ぎつけるための手段。カバーレターはレジメを読んでもらうためのもの。
カバーレターが魅力的じゃなかったら、レジメは読んでもらえないし、レジメが興味をそそるものでなかったら面接もしてもらえない。」
と、レジメは就職活動の入り口でしかないことを強調。
「就職活動を左右する最も大事なことは、採用を決める人にいかに好印象を与えるかだ。
と、人事の立場から話してくれました。

 レジメを書き直したら、一般用のレジメをモンスター・ドットコムなどの就職・求人サイトやLinkedInなどのビジネスSNSに登録して最新のレジメを添付するように指示されました。
 就職サイトに登録すると、求人のコンタクトの他にも、セミナーや学校の案内などのコンタクトも来るので、不要なものは整理が必要になってきます。
 夫当時働いていた会社の規則で、1カ月間の企業内職探しの後3ヶ月プログラムのスケジュールをこなしながら、外部での職探しをすることになるため、整理のための時間が取れないので、就職・求人サイトのチェックは私が担当するようにアドバイスを受けました。

 また、G.Tさんの知り合いで、教会で職探し活動のワークショップやカウンセリングをやっているS.Sさんに連絡を取って、次回のセミナーの予約を取るように勧められました。

 次回に続く… 
 
 

余談:カバーレターについて
G.Tさんの勧めで、カバーレターを書くことになったのだけれど、カバーレターを書くのが初めてのはどうやって書いて良いのかわからない。
 インターネットのサンプルなどを見て、何とかそれらしいものを書いて、J.Cさんに添削を頼みました。

 頑張って初挑戦したカバーレターだったけれど、工学部出身のは、文章を書く(しかもビジネス英語で)スキルがかなり不足している。
 添削してもらったカバーレターは、内容こそは一緒だけれど、文章は全く別物に書き換えられていて、の書いた文章はカケラも残っていなかった。
 
 外国人だけでなく英語がネイティブの人でも、お金を払ってレジメやカバーレターを代書してもらう人がいるくらいなので、J.Cさんのように完璧なカバーレターを書ける人はアメリカ人にも多くない。
 「持つべきものは優秀な友達。」
だと、痛感した。

2013年11月25日月曜日

レジメの準備
-アメリカで転職1-


 本題に入る前に、昨日の記事の書き方が誤解を呼んじゃったみたいなので、お詫びです。
 がレイオフになったのは去年の11月で、約1年前のことです。
 レイオフされた直後は、バタバタしていて記事にする余裕がなくて、今頃記事にしてUPしています。
 季節も一緒だし、去年の出来事だと言うことを強調していなくて、紛らわしい書き方で済みませんでした。
o(_ _)oペコッ

  昨日の記事からの続き…

 レイオフを言い渡された当日、はかなり落ち込んでいて仕事を午前中で切り上げて帰ってきた。
(というか、件の上司に「今日は帰れ」といわれたらしい。)

 一方、私はレイオフのニュースを聞いた時、あまり驚かなかった。
 実は、その1ヶ月くらい前からパワハラがかなり激しくなっていて、「英語の使い方がネイティブのようではない」などの、仕事の内容とは全く関係のないことで執拗に叱責したり、日本との繋がりのある仕事から外したり、という事が起きていたので、「解雇を言い出されるのは時間の問題だろうな」と、感じていたからです。

 レイオフが信じられないくて呆然とするに、日本とアメリカの両方の企業で務めたことのあるJ.Cさんに連絡をとって、相談するように勧めた。

 運良く、その日はJ.Cさんは休暇をとってお休み中で、解雇の知らせを聞いてすぐに飛んできてくれて、これからの対策をJ.Cさんとと私の3人で考えることになった。

 J.Cさんと話し合った結果、職探しの方法としては、知り合いを当ったり、インターネットの職探しのサイトやSNSに登録を勧められました。
 また、(アメリカでは仕事を辞めてしまうと健康保険などの社会保障がなくなってしまうので、)会社の提示する研修や企業内転職の期間を出来るだけ長くとって時間を稼ぎ、その間に転職活動を進めていくことで意見が一致しました。

 レイオフを言い渡された当日の時点では、まだ3ヶ月のスキル向上プログラムについてもハッキリした情報は聞いてなかったし、元同僚ともコンタクトを取れていなかったので、一般的な就職活動の手順として、レジメ(履歴書)を準備しようということになった。

 は(日本国内でだけれど)今までに何回か転職していて、そのうちの2社は外資系だったので、以前に使った英語のレジメはあるのだけれど、最後に使ったのが7年前で新しく加わった情報や職歴を書き換える必要があった。

 古いレジメを書き直したら、J.Cさんがチェックしてくれるというので、レジメを見直して今回の転職活動に使えるように書きかえることになった。

 次回に続く…
 
 

2013年11月24日日曜日

青天の霹靂
-アメリカで失業-

 前回の記事に、の転職のことをちらっと書いたのだけれど、去年の11月に入ってすぐ、がレイオフを言い渡された。

 表向きの理由は、「前年よりもパフォーマンスが下がったから」というものだったけれど、
何がどのように下がったのかの説明もなく、レイオフを言い渡される以前にパフォーマンスが下がっていることの注意も警告もなし、問題点を改善するための援助もなし、など、解雇のための法的な手続きを踏んでいない、所謂不当解雇だった。

 おそらく本当の理由は、直属の上司がを嫌っていたため。
 上司が嫌っていたからではないかと考える根拠は2つ。

 一つは、会社のサポートでグリーンカード(永住ビザ)を取得してまだ半年だったこと。
永住ビザの申請には、弁護士を雇ったり申請料を払ったりなどお金がかかる。
永住ビザの費用は雇用主が払わなければならないことになっていて、グリーンカードをサポートした従業員に取得直後に辞められたら会社は大損なので、外国人はビザが切れたら使い捨てにすることが多く、長期間雇いたい特別の理由がない限り、永住ビザのスポンサーになることはない。
 表向きの理由が本当ならば、グリーンカードの申請中にすでにパフォーマンスが下がっていた筈なので、申請を取り下げれば済んだのにそれがされていない。
 取得後にパフォーマンスが急激に下がったとしても、かかった費用を回収するために様子を見るのが普通で、すぐに解雇と言うことは考えにくい。

 もう一つは、パワハラが酷かったこと
 いくら個人的に嫌っているからといっても、仕事の成績が良いと辞めさせることは出来ないので、
・他の同僚の2~3倍の仕事(しかも業績が悪く問題が山積みの仕事)を割り振り、
・必要な情報を知らせず、
が進行役を勤める会議では議題とは関係のない話題を持ち出して妨害したり
・不必要なレポートを書かせて、何度も書き直しを要求して、本来の仕事をする時間を減らしたり、
・取引先とのミーティングからわざと外したり、
など、仕事の足を引っ張るためのパワハラがすごかった。
 だけでなく、気に入らない部下には嫌がらせをして、自己都合退職するように仕向けていたみたいで、この上司がボスになってからの他にもすでに3人が仕事を辞めていた。

 アメリカでは、上司が気に入らない部下をレイオフすることはよくあることみたいで、アメリカ人の友人にレイオフのいきさつを話したら、全員が「自分も同じ経験(上司と上手く行かなくてレイオフされる経験)をしたことがある」と話してくれて驚いた。

 の働いていた会社の規則によると、
パフォーマンスが良くなくてレイオフになる場合、
「1ヶ月は企業内で転職先を探すことができ、
1ヶ月以内に仕事が見つからなかった場合には、そのまま退職するか、3ヶ月間のスキル向上プログラムを受けて成績が良ければ元の部署に戻れるが、そうでなければ解雇」
と、いう仕組みになっていた。

 解雇を知らされた当日には知らなかったのですが、の以前の同僚そのプログラムを受けたことのある人にコンタクトを取って話を聞いたら、
「3ヶ月プログラムは、会社が『不当解雇』で訴えられないようにするための見せ掛けのプログラムで、社員のスキル向上のためではない。
到底達成できないようなタスク(課題)を与えて、やめさせる口実を作るためのもの。
3ヶ月プログラムを受けた人で元の部署に戻れた人は1人もいないから、プログラムの期間中に就職活動して別の会社を探したほうがいい。」
と、教えてくれた。

 この元同僚の話や、その他の状況から、その会社に残れる可能性はほとんどないことがわかったので、社外への転職活動をしなくてはならない状態でした。

長くなったので続きは次回…  
 

追記
 がレイオフになったのは去年の11月で、約1年前のことです。
冒頭に去年の出来事だと書いてあったのだけれど、目立たなかったみたいで誤解が起こってしまったみたいなので、わかりやすいように赤字に変えてみました。
紛らわしくてスミマセンでしたm(_ _)m

2013年11月22日金曜日

自己評価  -日米の違い-

 この間、の勤めている会社で、(ボーナスや来年度の給料を決めるデータを集めるため、)今年1年の自分や同僚に対する評価のリサーチがあった。

 は約1年前に転職して、現在の会社に入ったので、評価をするのは初めて。
(以前の会社は、お互いに評価する仕組みがなく、上司の一方的な評価で給料が決められていた。)

 評価の提出の締め切りの日には休暇を取っていたので、会社の従業員サイトにアクセスして、家で評価のフォームを埋める作業をしていた。

 私がパソコンを使っている横で作業していたので、
「○○は頑張ったけど思ったほど結果がでなかったから、5段階評価の3かな?」
「△はかなり結果も出ているから、4かな?」
とか、ブツブツ言いながら評価しているのが聞こえてしまう。

 傍で聞いていると、どの項目も良くて4、ほとんどが3、2が少し、という評価をしている。
 いかにも謙譲が美徳の日本人らしい評価の仕方をしているので、
「どの項目も1つずつ評価を上げて、最低の評価が3になるように入力したほうが良いよ。」
「『これは頑張った。』と思うものは、結果如何(いかん)に関わらず、最高評価をつけるべき。」
と、つい口を挟んでしまった。

 口を挟まずにいられなかった理由は、私はアメリカの大学である教養のクラスを取っていた時に、自己評価で日米の違いを思い知ったからである。

 私のとっていたクラスでは、宿題を提出する時に、その課題に対しての自己評価とその理由も書いて提出するように指示されていた。

 最初の宿題を提出した時、私も日本人の多分に漏れず控えめな自己評価で、80%と書いて理由も添えて提出した。
 隣に座っていたクラスメイトは、授業の始まる前の休み時間に周りの生徒に助けてもらいながら慌てて宿題を仕上げて、評価を99%、理由は「頑張ったから」と書いて提出していた。

 私はその時、クラスメイトの図々しいまでに高い自己評価に驚いたけれど、その宿題が返ってきてもっとびっくりした。
 自己評価に書いた点数が、そのまま宿題の評価になっていたからである。

 つまり、
私→自力で宿題をして、自己評価が80%だったので80点
クラスメイト→ほぼ他人の宿題を写して、自己評価が99%だったので99点
だった。

げ~┛)"0"(┗ ウソだろ~
と、日本人頭の私はショックを受けたが、
周りのアメリカ人は(自力で宿題をやった人も)みんな、自己評価に高い点数をつけていて、100点がゴロゴロいた。

 「自己評価」は日本人の感覚だと、「自己反省」とほぼ同義語だと思う。
 自己評価が高いのは「高慢だ」と敬遠される。
低めの自己評価をつけていても、周りの評価で総合評価が上がることもある。

 けれども、アメリカ人の感覚だと「自己評価」は「自己をアピールする機会」なのである。
 だから、自分がいかに優れているか、いかに努力をしたかを強調する。
 自己評価が低い人は、「自分に自信のないヤツ(自分を信じられない人は、他人から信頼されなくても仕方がない)」と思われてマイナスイメージなので、当然、ほとんどの人が高い評価をつける。
 その結果、自己評価よりも総合的な評価が下がることはあっても、上がることはない。

 なので、アメリカの自己評価を日本式の感覚でやると、とんでもなく低い評価になってしまうことがあって危険。

今回の教訓アメリカの「自己評価」は「自己アピールの機会」。日本のように受身で控えめな評価は通用しない。積極的に自分に高評価をつけよう。
 
 

2013年11月20日水曜日

ケネディ大統領暗殺から50年


 公民権運動つながりで、映画"The Help"の記事のすぐ後に、この記事を入れる予定だったのだけれど、暴風と竜巻が近くを通ったので、その記事を割り込ませちゃいました。
 なので、直前の記事と話がつながっていないのです。
手直しはしたのですが、文章におかしなところがあったら、お許しを~

 最近、スーパーのレジの近くに置かれている雑誌や、新聞などでケネディ大統領関係の特集を頻繁に見るようになったので、「何で今頃JFKなんだろう?」と、不思議に思っていたら、今年の11月22日でケネディ大統領暗殺から50年になるらしい。

 映画"The Help"にも出てくるのだけれど、ケネディ大統領がテキサス州ダラスで暗殺されたのは1963年。

 当時社会的に差別されていた、アフリカ系アメリカ人の公民権と差別の解消を目指して運動が行われた時期でした。
 1963年8月にはキング牧師が全米から参加者と共にワシントンD.Cまで行進をして、有名な"I Have a Dream"の演説が行われた年でした。

 ケネディ大統領は、有色人種に対する差別を撤廃するような政策をすすめていて、公民権運動の指導者でもあるキング牧師とも関わり(キング牧師が逮捕された時に、釈放を求めて働きかけたり、"I Have a Dream"の演説に賛同したり)があり、ケネディ大統領が暗殺された時、キング牧師は「自分もいつか(ケネディ大統領のように)暗殺されるかもしれない」と話したそうです。

 事件の直後、オズワルドが大統領を狙撃したとして逮捕されるが、事件の2日後、移送中にジャック・ルビーに射殺される。
 (暗殺時のパレードの様子をうつしたフィルムや写真も沢山あったにも関わらず)容疑者が射殺されてしまったことで、事件の真相はわからずじまいになってしまった謎の多い事件。
 にもかかわらず、徹底的に調査が行われることはなく、事件の詳細も公にされていない。
それにしても、一国の大統領が暗殺されているのに、事件の真相が国民に知らされないままって…

2013年11月19日火曜日

暴風&竜巻


 昨日(11月17日)の夜、風が強いなぁ~と思ったら、暴風警報が出ていた。

(←11月18日デトロイト近郊)

 ネットのニュースで調べたら、日曜日(17日)の朝、竜巻が多数発生して、シカゴの郊外で死者が出たと言うことだった。

 シカゴの郊外を襲った竜巻と強力な低気圧は、その後東へ移動して、ニューヨーク州やボストンを通って、翌朝(18日)大西洋に抜ける見込みと言うことだった。

 シカゴからニューヨーク州を通る予報なら、我が家のある地域はバッチリ低気圧の通り道。
|||||/(=ω=。)\ガーン|||||

(←11月17日、シカゴ郊外)

 これから(ニュースを確認した時点から)、更に風が強くなることが予想された。
 強風だけなら家の中にいればいいけれど、竜巻に巻き込まれたら家ごと破壊されてしまうので、地下室に避難するくらいしか打つ手がない。
(地下室に避難したって、生き埋めになっちゃう可能性もあるので、安全とは言い切れない)

 さらに、竜巻はどこで起こるかわからないので、竜巻の通り道に当らないことを祈るしかない。

 幸い我が家は、竜巻の難を逃れて無事に翌朝を迎えることが出来た。
 けれども、悪天候には我が家のある住宅地に付き物の停電になってしまった。
 我が家は18日の午前1時くらいから停電。

 今回は我が家のある住宅地だけではなくて、近隣の地域も含めた広範囲で停電したらしく、役1200万世帯が停電、オフィスや学校なども停電のため休校する学校も100以上になった。
(私たちの住んでいる市の学校のほとんどが休校になる中、怪獣の通う学校と隣の中学校は停電にならず、平常どおりの登校になって、怪獣はガッカリしていた。)

 停電中の我が家は、暖房もストップ、インターネットもテレビも使えず、被害の状況がどうなっているのかが全くわからなかった。
 復旧してからテレビのニュースを見ると、今回の暴風で竜巻は50個以上発生。
被害が最も酷かったのはシカゴの郊外の地域で、竜巻で家が全壊&半壊状態で、避難生活を余儀なくされているほか、少なくとも6人の死亡が確認されたようです。
 インディアナポリス近郊では、竜巻で商業施設などの建物が倒壊。
 またデトロイト近郊では、高校生が強風で切れた電線に触れて感電し、重態だそうです。
(11月18日午前11時現在のニュース)

2013年11月17日日曜日

The Help
ヘルプ~心がつなぐストーリー~


 The Helpは、2011年のアメリカのドラマ映画。
 キャサリン・スケットの2009年の同名の小説をもとに作られた映画で、1960年代の公民権運動の時期を背景に、ミシシッピ州ジャクソンのアフリカ系アメリカ人のメイドの暮らしを描いた作品です。

 邦題は「ヘルプ~心がつなぐストーリー~」で、2012年3月に劇場公開されています。

 映画のストーリーは、大学を卒業したばかりの白人女性ユージニア・フェラン愛称スキータ(エマ・ストーン)、黒人のメイドのエイブリーン・クラーク(ヴィオラ・デイヴィス)と同じく黒人メイドのミニー・ジャクソン(オクタヴィア・スペンサー)の3人の視点をメインに描かれています。

(←ユージニア・フェラン、愛称スキータ)

 スキータはミシシッピ州ジャクソンのプランテーションを営む裕福な白人家庭の出身で、ライターを目指している。
 ミシシッピ大学を卒業後地元に戻り、地元の新聞社で家事関係のコラムニストの仕事に就職したばかり。

(←エイヴリーン・クラーク)

 エイヴリーン・クラークはスキータの友人のエリザベス・リーフォルト(アーナ・オライリー)の家でメイドをしている50代の黒人女性。
 家事一般と主にエリザベスの娘のメイ・モブリー(エレノア&エマ・ヘンリー)の世話をしている。

(←ミニー・ジャクソン)

 ミニー・ジャクソンはエイヴリーンの親友の黒人メイド。
 料理の腕は抜群だが、ズケズケものを言うので雇い主から嫌われ、何度も解雇と転職を繰り返している。
 ミセス・ウォルターズ(シシィー・スペイセク)のメイドとして働いていたが、ミセス・ウォルターズの娘でスキータの友人ヒリー・ホルブルック(ブライス・ダラス・ハーワード)に解雇されてしまう。

 大学を卒業して故郷に帰ったスキータは、彼女の幼馴染は皆結婚し、家事や子育てを黒人のメイドに任せて社交に明け暮れている状態であることや、友人たちのメイドの扱い方に疑問を覚える。
 また、長年自分の家で勤めて自分を育ててくれた黒人メイドのコンスタンティンが、自分に連絡をよこすことなく仕事を辞めたことに、何か裏があるのではないかと思っている。

 ライターを目指すスキータは、黒人メイドの視点から本を書くことを思い立ち、エイヴリーンに何人かのメイドとインタビューが出来ないかと話を持ちかけるが、勤め先でのことを話したことで、仕事を首になったり、逮捕されるかも知れないと恐れたメイドたちは、インタビューに応じてくれない。

 おまけに、法律を調べたスキータは、当時の州法では白人と黒人が一緒に活動することが禁じられていて、インタビューをすること自体が違法であること知る。

 様々な不当な扱いや、事件が相次ぎ、最初にエイヴリーンが、次にミニーが取材に協力してくれることになり、最終的にはその他のメイドも協力してくれることになった。

 取材から出版までは、見つかって逮捕されることがないように、密かに行われ、本の出版後の報復を避けるため名前はすべて変えられた。
 さらに、ミニーの提案した"万一の保険"となる出来事とスキータを育てたメイドコンスタンティンの話を加えて、出版される。

(←ヒリー)

 この作品で、スキータの友人のヒリーは、憎まれ役の筆頭なのだけれど、
まぁ、ここまで人が意地悪くなれるもんだと、感動するくらい徹底した意地悪ぶり。
 ミニーが提案した"万一の保険"の出来事では、ヒリーが酷い目(+恥ずかしくて人には言えない悲惨な目)に合うのだけれど、映画の観衆で彼女に同情する人はいないだろうと思う。
(逆に、多くの人が最も胸のすくエピソードと思えるのでは…)

 あとは、スキータのもう一人の友人の娘で、エイヴリーンが面倒を見ていたメイ・モブリー役のエマ・ヘンリーとエレノア・ヘンリー(2人1役)が可愛かった。
 涙を流してなくシーンがいくつかあったのだけれど、こんな絶妙なタイミングで泣けるなんて、名子役??と、思っていたら、赤い目や涙はCGの加工だと言うことが、ネットで調べていたらわかって驚き。
本当に泣いているのかと思うほど、自然に加工されていた。
(多分、DVDなどで一時停止して見ればわかるのだろうけれど、映画館のように流れで見たらわからないレベルだと思う。)

 余談になるのだけれど、Ole Missという大学が、University of Mississippi(ミシシッピ大学)の愛称だということをこの映画で知った。
(Ole Missは映画「幸せの隠れ場所」にも出てくるのだけれど、"The Help"を観るまでは、Ole Missと言う名前の大学があると思っていた。)
 

2013年11月15日金曜日

初雪? 2013


 火曜日(11月12日)の朝、明るくなって外を見たら、薄っすらと雪が積もっていた。
 どうやら前の晩から早朝まで、雪が降ったらしい。
 去年は11月25日一昨年は11月30日3年前は12月4日が初積雪なので、今年は早めの初雪です。

(←デッキ&裏庭)

 昼ごろからは晴れたのですが、最高気温は2℃までしか上がらず、最低気温は-7℃と寒い1日になりました。

 今年は夏も雨が多くて涼しかったし、冬は早く来るしで、地球温暖化がウソのよう。
 アメリカ人が「地球温暖化なんて関係ない」と、言い切って、温室ガスの排出に気を止めない理由がわかるような気がする。

 大学でGeology(地質学)の授業を取っていた頃のこと、エネルギーの循環という内容を学んでいる時に、クラスメイトの一人が、
「地球温暖化なんて僕ら(の生活)には関係ない。」
と、明言して、教師に
「君はこのクラスから何も学んでないようだね」
と、たしなめられていました。

 このクラスメイトが特殊なのではなくて、多くのアメリカ人がエコロジーに関心が薄いのは事実。
 テレビやネットのCMでも、(省エネで光熱費を節約する商品の宣伝はあるけれど、)日本のようなエコを意識した企業努力のCMは見ないし、小中学校でもエコについてあまり教えない。

 世界で最も一人当たりの温暖化ガスの排出量が多いアメリカ。
(しかも、2010年当時、2位のカナダに2倍くらいの差をつけて堂々の1位。ヨーロッパや日本はカナダの1/4くらい。)
 アメリカがエコロジーの教育を徹底したら、温暖化を遅らせるのにかなり効果があると思うのだけれど…
 
 
 

2013年11月13日水曜日

ノスタルジック小旅行2(おまけ)

おまけ:この記事は、一つ前の記事の「続きを読む」に入れるつもりだったのですが、あまりにも長くなったので、新しい記事にすることにしました。


 今回の旅行では、の学生時代からの知り合いで、毎年クリスマスカードを遣り取りしている、Wさんの家に泊めていただきました。

(←庭にある古井戸を金網でふさいで、秋っぽい飾りつけがされていました)

 Wさんの家は、1860年代に建てられた歴史的建物。
 約30年前、新婚時代に購入して、改装を重ねてきたそうです。

 インテリアは、(子どもたちが成人して独立したこともあって)雑誌に出てくる家のように綺麗でした。

(←私たち夫婦が使わせていただいたゲストルーム)

 古い家なので、間取りは細かく区切られていて、ひとつひとつの部屋のサイズは小さいのですが、天井が高い(我が家の天井よりも30cmくらい高い)ので、閉塞感は感じませんでした。

(←チェストと窓の間に写っている、ラジエーター式ヒーター)

 興味深いと思ったのは、暖房システム。
 Wさんのお宅は蒸気式ラジエーターを使ったセントラルヒーティング。
 各部屋にラジエーターがあって、地下にあるボイラーで作った蒸気を各部屋のラジエーターに送って放射熱で部屋を暖める仕組みでした。

 部屋の中で火を燃やす暖房に比べると、空気は汚さないけれど、暖房効率があまり良くないのが欠点で、よほど寒くならない限りは使わないと話していました。
 他のセントラルヒーティングに変えようと思うとお金がかかるので、そのまま旧来のラジエーターを使っているそうです。

おまけその2:
 の卒業した大学のある町は、1800年代前半に開拓された町で、が大学に通っていた頃は、大学以外には何もなくて、大学のキャンパスから歩いていける距離に町の中心があり、店も町の中心に集中していたそうです。

 今回訪問した時には、町の中心はかつての町の中心(旧市街)から3マイルくらい離れたところに移動していて、ショッピングモールや大型のスーパーマーケットも出来ていました。
 大学に立ち寄ったついでに、旧市街も歩いてみたのですが、小さなベーカリーと映画館があるくらいで、他のお店はほとんどがアンティーク・ショップになっていました。

 アンティーク・ショップ好きのの希望で、そのうちの1つの店に入ることにしました。
 はアンティーク・ショップを見て回って、二束三文で売られているけれど、手入れをすれば高く売れそうなビンテージものを探すのが好き。
店に入った途端、あちらこちらを歩き回って物色を始めました。

 私は、ほど掘り出し物に興味はないので、現在家にあるアンティークの来客用ダイニングセットの椅子が5脚しかないので、同じスタイルの椅子と、
夫婦の寝室にあるドレッサーの引き出しの取っ手の金具を探すことにしました。

(←夫婦の寝室のドレッサー
上の画像の水色の矢印の先:金具がついていない引き出し。
下:取っ手のない引き出し部分の拡大画像)

 残念なことに?(たとえ見つかったとしてもセダンタイプの車じゃ載せて帰るのは無理だったから見つからなくてラッキーだったのか?)、ダイニングチェアは見つかりませんでしたが、ドレッサーの取っ手の金具は見つかりました。

(←ドレッサーの引き出しについていた、取っ手の部分が外れてなくなった金具)

 夫婦の寝室のドレッサーは、3年前に天蓋つきのベッドとサイドテーブル2組と一緒に、クレイグス・リストで見つけて購入した中古品で、一番上の右側の引き出しの金具の取っ手がなくなっていました。

 DIYのお店など、家具の金具を扱っている店を探しても、古い金具なのでとうの昔に生産停止になってしまっていて見つからず。
 金具の後ろに刻まれているメーカーの名前でネット検索したのですが、ネット上でメーカーのサイトもカタログも見つからず、ネットショップやオクションやクレーグスリストなど(中古を)流通しているサイトでも、同じメーカー・同じデザインのものは見つかりませんでした。

(←上:今回アンティーク・ショップで見つけた金具
下:袋から出したところ)

 ところが、今回入ったアンティーク・ショップの引き出しの金具のコーナーに、全く同じデザインの金具を1つだけ発見。

 このメーカーの金具はネットショップなどで取引される時、1つ10~30ドルくらいなのに、そのお店ではたったの2ドルでした。
(一部錆びていて、磨かなければならない状態だけれど…)

 家に帰って確かめてみたら、サイズもぴったり同じで驚きました。

 3年間探しても見つからなかった金具が、家から何百マイルも離れた町のたまたま入ったアンティーク・ショップで見つかるなんて、偶然を通り越して運命のようなものを感じてドキドキました。

  

 
  

2013年11月12日火曜日

ノスタルジック小旅行


 この前の土日にかけて、が20年前に卒業した大学のある町に出かけてきた。

 が留学生時代に住んでいた町は、今住んでいる州の隣の州にあって、アメリカでは比較的近距離。
 今の家に引っ越してきて、旅行などで近くまで行く事はあったのだけれど、目的地として出かけたことはなかったし、途中でたち寄ることもなかった。

(↑左手前の緑の屋根の建物:新エンジニアリング棟
左奥に少しだけ写っている建物:旧エンジニアリング棟)

 2003年にまだ日本に住んでいた時、夏休みに一度だけ訪問したことがあって、その時以来だから、10年ぶりの訪問になる。

(↑10年前に訪問した時はなかったセンター・ビルと歩道橋
歩道橋の後ろに新エンジニアリング棟が写っている)

 10年前に訪問した時も、新しい建物が出来たりして、様変わりしていたのだけれど、今回は更に古い建物も壊されたり増築されたり、新しい建物や施設などが出来ていたり、が通っていた頃の面影はほとんどなくなっていたらしい。

(↑夫が通っていた頃にもあった建物郡
左の建物は一部増築されているらしい。)

 が通っていた当時にあった建物も、一部が増改築されていたり、違う目的で使われていたり、道路が封鎖されたり、近隣の古い建物を買い取って改築中だったり、キャンパス自体のサイズも広がっているようでした。

(↑昔教会だった建物を買い取って、劇場にするために改築しているところ)

(↑以前鉄道の駅だった建物を改装して作られたカフェテリア
手前のレールは今も貨物の輸送に使われている。)

 極めつけは、(大学の運営団体は変わらないけれど)大学の名前までもが変わっていて、あまりの変わりようには、ノスタルジックを通り越して浦島太郎状態に陥ってました。

2013年11月10日日曜日

手作りネコの爪とぎ


 日本でも文化の日を挟んで3連休だったけれど、先週の月曜日と火曜日(11月4日と5日)は、怪獣の学校が教員の研修のためお休みだった。
 学校の休みの日は朝の勉強会も休みなので、4連休の間に、早起きの睡眠パターンが崩れてしまっている。

 話は変わるのだけれど、アメリカは紙製品が高い。
トイレットペーパーは12ロール入りで10ドル(約1000円)前後するし、ティッシュペーパーは120組が1箱で1ドル50セント(約150円)もする。
(おちおち花粉症にもかかれない)

(↑自作した猫の爪とぎ)

 ペットシーツなどもかなり高くて、75枚入りで50ドル(約5000円)くらいなので、ペットシーツは買ったことがない。
 猫の爪とぎも、日本だったら100円くらいで売られている、ダンボールを張り合わせただけのものが、10ドル(約1000円)もする。

 あまりに高いので、1年に1回くらいしか爪とぎを交換できなくて、パイル状のソファーが爪とぎの被害に遭ってボロボロに…
(ノ_-。)

(←自作の爪とぎに群がる猫たち)

 我が家はDIYで家の改修をしているため、改修の材料や建具や洗面ボウル等を梱包していたダンボールは腐るほどある。
 ダンボールを切って貼り合わせれば、猫の爪とぎが出来るかも…
ということで、週末に怪獣にお願いして作ってもらった。

 作り方は簡単。
猫が入るくらいの箱を作って、箱の中に細長く切ったダンボールと並べるだけ。
貼り合わせてもいない超簡単さ。

 それでいて、部屋に置いたら猫が交互にやってきて爪とぎを待つくらいの人気。
爪とぎは1ヶ月くらいでボロボロになるので、これからは怪獣に爪とぎを作ってもらおう~
(*^0^*)♪~

 

2013年11月8日金曜日

リモデリング61 
玄関外灯に光センサーをつける

 我が家の玄関ポーチの外灯は、タイマーやセンサーがついていなくて、手動で夜になったら明かりをつけて、寝る前には消していました。

 手動だと、暗くなっているのに点け忘れたり、夜寝る前に消し忘れて昼間もずっと点きっぱなしだったり、していました。
家族みんなが家にいない時は外灯は消しっぱなしで、夜になって部屋の明かりがつかなければ、「誰も家にいませんよ~」
と、知らせているようなものでした。

(↑センサー付きのソケットに取り替えているところ)

前回の記事に書いた、友人の家の空き巣の話を聞いたことと、異臭事件もあって、防犯のためにも手動で点灯や消灯をするのではなく、センサーで暗くなったら自動的に明かりが点くようにして、寝る前にも消さない方が良いのではないかと思ったので、玄関ポーチの外灯に光のセンサーを付けることにしました。

 今回とりつけたのは、ソケットタイプの光センサーで、今使っている電球とソケットの間に、光センサーのついたソケットをつけるだけの手軽さ。
 光センサーのソケットの高さの分だけ、電球の位置が上がってしまうのですが、我が家の玄関ポーチライトのカバーは高さが十分にあったので、問題なく取り付けることができました。

 センサー付きのソケットを取り付けて以来、寝る前に消すのはやめて、センサーに点灯消灯を任せることにしました。
 寝る前に消灯するのに比べると、少しだけ電気代はかさむのですが、留守しているのがわかりにくくなるので、旅行や夜遅くまで出かける時に安心できるようになりました。

2013年11月6日水曜日

空き巣


  スカンクの巣の記事を書いていて思い出したのだけれど、以前異臭騒動の時に、異臭とキッチンの灯りが点いていただけなのに、
「誰か家に侵入したのでは?」と、パニックになってしまったのには理由があります。

 異臭騒動の2ヶ月くらい前、同じ市内に住むアメリカ人の友人の家に空き巣が入ったことがあったからです 空き巣が入った日、彼女(友人)は仕事で暗くなってから帰宅したそうです。
高校生の息子と夫もまだ帰宅していなくて、家は真っ暗だったそうですが、ガレージのドアが開きっぱなしだったそうです。

  彼女の家では大型犬を飼っていて、前に戸締りがちゃんとしていなかった時に、ドアを押し開けて脱走したことがあって、その時も
「また脱走したのだろう」
と、家に入る前に庭を犬の名前を呼びながら一周したけれど、見つからず。
「そのうち、お腹が減ったら帰ってくるだろう」
と、思って家に入ってキッチンの電気を点けたそうです。

 キッチンの電気をつけるやいなや、キッチンの掃き出し窓の外に2人の人影が見えたので、悲鳴をあげたら、外の2人が静かにして窓を開けるように身振りで指示してきたので、窓を開けたそうです。

 外にいた2人は、ヒッピー風に髪も長くボロボロの服を着ていて、かなり怪しい雰囲気で、窓を開けるなり
「この家から黒人の男は出てきませんでしたか?」
「何か盗まれたものはありませんか?」
と、矢継ぎ早に質問してきたらしいです。

 話を聞くと彼らは警察の捜査官で、その時友人の住んでいた住宅街で空き巣の被害が頻発していたので、友人の家の隣の家のデッキの下に潜伏して、暗闇でも見える特殊な双眼鏡をつけて空き巣が来るのを待ち構えていたそうです。

  友人の家を見張っていたのは、空き巣の被害にあった家はどの家も、暗くなっても外灯も家の明かりもついていない家だったそうで、友人の家も暗くなっても灯りがついていなかったので、狙われるのではないかと待ち構えていたら、案の定犯人とおぼしき男が友人宅に入って行くのを見つけて、逮捕しようとしていたら、
(友人が帰ってきて)ガレージのシャッターを開けてしまったので、かなり焦ったそうです。

 

  しばらくして(犬探しを諦めた)友人が家に戻って、キッチンの灯りを点けてしまったので、眩しくて目がくらんでしまって、犯人が家の中に入るのは確認できたけれど、出てくるのは確認できなかったそうです。
「家の中に犯人がまだいると危険なので、家の中を確認させてください。」と、いうことで、友人立会いのもとで家をくまなく探したそうですが、誰もいなかったそうです。
盗られたものは、先祖代々伝えられてきた宝石箱から、アクセサリーが数点のみで、他の物は荒らされた様子はなかったそうです。

  不幸中の幸いだったのは、友人が犬を探すために庭を歩いている間に犯人が逃げたこと。
もし友人がそのまま家に入って犯人と鉢合せしていたら、殺されていたかもしれないと警察の人は話していたそうです。

  友人の家に空き巣が入って2日後、空き巣は捕まったそうです。
空き巣が捕まるまでは、住宅街の道路に路上駐車する車が多くて、不思議に思っていたそうですが、路上駐車していた車は警察の張り込みの車で、事件解決後は路上駐車が激減したそうです。
 友人は、
「うちに空き巣が入って、2日で逮捕されてよかった。犯人が捕まらないと、いつ戻ってくるか怖くて眠れないから。」
と、話していました。

2013年11月4日月曜日

夏時間が終わる


 11月3日の日曜日、夏時間(正確にはデイライト・セービング・タイム)が終わり標準時(スタンダード・タイム)に切り替わりました。

 アメリカには6つのタイムゾーンがあって、多くの州で夏は1時間時計を進める、デイライト・セービング・タイムを採用しています。

 「夏」と言っても、デイライト・セービング・タイムが始まるのが3月の第2日曜、終わるのが11月の第1日曜で、標準時より長い期間です。
(2006年以前は4月の第1日曜~10月の最終日曜まででした)

 標準時に切り替わる前日にと、
「そういえば明日から時間が切り替わるよね~」
「時計を1時間遅らせなければ…」
と、話しているうちに、ちょっと口論っぽくなってしまいました。

:「スタンダード・タイムに変わったら、朝が早い時間に来るようになるよね~」
:「違うだろ~日の出の時間はかわらんだろ」
:「そうじゃなくて、時計が1時間遅くなるから、朝は早い時間に明るくなるんだよ。」
:「違うだろ~逆じゃない?」
:(心の声)-逆なわけないじゃん!-
「だから、朝は早い時間に明るくなって、夕方は早い時間に暗くなるんだって。」
バカにしたような口調で
「わかってないなぁ~説明するから時計を見なよ。」
:(心の声)-わかってないのはそっちだ! (`ε´)ブーブー -

 に限らず、男という人種は(特に女性に対しては)いつも優位にたっていたいらしい…
( ´,_ゝ`)ハイハイ
は得意げに、キッチンにある壁掛け時計を見ながら説明を始める。

:「1時間時間がずれるということは、日本との時差が13時間から14時間になるわけで…」
:(心の声)-なぜにここで日本時間との時差の話になるかなぁ?-
:「今の時間が○時だから…
スタンダード・タイムになっても、実質的な日の出の時間は変わらなくて、時計だけが一時間遅れるから…」
:(心の声)-オイオイ、人に説明する前に、考えをまとめてから説明しろ-

 一向にまとまらない話に痺れを切らした私が時計を指差しながら説明

:「だから、今は朝7時半くらいにしか明るくならないけれど、時計が1時間後ろにずれたら、6時半には明るくなるってことでしょ?その代わり夕方は1時間早く暗くなる。」
:「あれれ…?そうだな。」
:「そうなんだよ。
日本時間のことまで考えるから、ゴチャゴチャして来るんだよ。
シンプルに考えないと…」

 かくして、の男としてのプライドは無慈悲な妻(私)によって、打ち砕かれてしまったのでした。

 それにしても、たかが夏時間が標準時間に変わるだけで、ここまで熱くディスカッションする夫婦って…

2013年11月3日日曜日

お礼

ブログの更新お休み中も訪問&コメントありがとうございました。
コメントになかなかお返事できなくてすみません。
m(_ _)m

11月になって、やっとインターネットにアクセスできるようになりました。

友人やお店のWi-Fiを使って時々ログインしていましたが、
設定の問題なのか、新しく作成した記事が消えてしまってなかなかUP出来なかったり、下書きが公開できなかったりで、ブログの更新が長いこと滞っていました。

下書きしていてUP出来なかった記事や、新しい記事を徐々にUPしていきたいと思いますので、宜しくお願いします。

2013年11月1日金曜日

ハロウィン2013


 今年のハロウィンも去年のハロウィンと同じく雨降りでした。

(←上:今年のジャック・オ・ランタン
下:ランタンを玄関前に飾ったところ)

 去年ほど気温は低くなかったものの、雨でおまけに平日なので、トリック・オア・トリートに来る子も少ないだろうと言うことで、お菓子は2袋分しか買いませんでした。

 お菓子が余ったら、自分たちで食べようと思っていたのですが、雨にも関わらず、トリック・オア・トリートに来る子がいて、用意していたお菓子の2/3はなくなりました。

 

 

 

 

 ハロウィン当日は平日だったので、家族でハロウィンっぽい料理を作ってディナーにしました。

 

 メニューは、
・コーンチップとグァカモレ
・ビーフシチュー、幽霊風マッシュポテト添え
・バターライス
・ソーセージ・ミイラ
・ベリーミックス・ジュース
・ブラッディ・レッドベルベッド・カップケーキ
・レモンポピーシード・マフィン
・キャラメルアップル
でした。

(↑コーンチップとグァカモレ)

(↑ビーフシチュー、幽霊風マッシュポテト添え)

(↑バターライス)

(↑ソーセージ・ミイラ)

(←上:レモンポピーシード・マフィンとブラッディ・レッドベルベッド・カップケーキ
下:キャラメル・アップル)

 コーンチップとキャラメルアップルは市販品。
その他は自分で作りました。

 レモンポピーシード・マフィンはパンプキン色に染める予定だったのですが、食紅の量が少なくて普通のマフィンの色と変わらないくらい色が薄くなってしまいました。

(↑食事を一皿に盛り付けたところ)

 幽霊風マッシュポテト添えのシチューとソーセージ・ミイラはハロウィンの料理の雑誌を参考に作りました。